隔離生活も5週目に突入
ニューヨークのコロナでの死亡者の数は減り、
感染数も徐々に落ちてきていると言うニュース
そうは言っても外の世界がすぐ変わるわけではなく
州知事のクォモも徐々に未来の話をし出したから
少しは明るくなってきたのだろうけれどね。
いまだこの生活がすぐに変わるわけではなく
その中でも明るい活動をしたいと日々時間を使う。
自分の活動が好きな人たちに受け入れられ始める中
少しずつ新しい目標もできてきて
今は目の前の事に力を注ぎたいなーと思う。つなげていきたいと思う。
そんな中私を応援してくれる、好意的にみてくれる人たちがいる中で
認識の違いで、ズレを感じる人達もたくさん出てきた。
それはもしかしたらこんな状況になる以前から
ズレはあったんだと思う。
でもみんな忙しかったし
お互いの近況を知るのが手一杯で
そんなに話をしてこなかった。
話す時間が惜しいほど
この「前の世界」は魅力に溢れていたし
時間に追われて、時計を見ながら、カレンダーを見ながら
私達は「時間がない」といいながら
その「時間」を確保する努力をしないまま、ただただ波にのまれていた。
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自分ではとても冷静なつもりだった。
この生活の中で前向きな活動をする事が楽しかったし、
それで他者も良い気持ちになれば嬉しいと思っていた。
しかし母のこととなると私は見境なく、
ただ母を安全な場所に置きたい、その一心で行動した。
まるで別人のように感情的になって
必死になって活路を見つけようと奮闘した。
助けてくれない、と思った人には嫌悪感を感じたし、
それでも押し黙って静かに身を引くことを選んだ。
必要な情報をくれる人達、助けてくれる人達も沢山現れた。
理解してくれる人もいた。
ずっと会っていなかったのに、私の話を聞いてくれる人もいた。
それがきっかけで母とたくさん話すようになった。
ラインでのやりとりは意識して行っていたが、
電話を頻繁にするようになった。
その一方で私の心をすり減らすようなことも沢山起きた。
それも驚くほどに矢継ぎ早にことは起こる。
ひとつはじまったと思えばまたもうひとつくる。
ひとつが解決したか、と思うと
もうひとつも解決する。
それでも私は自分の正義を疑わなかったし、だけれども相手をそれで封じ込めようとも思っていなかった。
どんな人に対しても誠意を持って対応しようと時間をかけた。
たとえ相手が私に全く尊敬を向けなくとも、
言われもないことを責められようとも。
全く見ているものが違いすぎて話にならない、と思っても
私はいつも冷静で、きちんとできていると思っていた。
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母が「町内会の組長だから今日は集金に行かなきゃいけないのよ」
と言った事から、私の母を心配する熱が更に大きくなった。
今後のことも考えて回覧板も危ないと思った。
でも彼女が町内会に意見できないことはわかっていた。
しないだろうとは思っていた。
長年長いものに巻かれ、私を育てるために必死で、どんな嫌なことも我慢して
口をつぐみながら送って来た公務員生活の中で
彼女が身につけたものは「忍耐」「(どんなに無能でも)上の指示に従う」ということだったはずだから。
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火のついた私は市と県、そして地元新聞社に意見書をメールした。
いまだ返事はない。
しかし母が町内の中で除け者にならないようにするには
行政という圧力で強制力を持った命令を受けなければ、この町内の様子は変わらないと思ったからだ。
母のためならなんでもする
その直前、
私は心がすり減る事が起きていたのだが、それもすっかり忘れ
ただただ情報集めと意見書のメール作り、食べるものそこそこに奮闘した。
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日本がお昼頃母に電話。
当然だが元公務員で、日本で生き続けていた母が
一番回覧板に関して、自治会、町内会、市政について一番知っていた。
それでも「上の命令に背くことはできない(たとえ間違っていようとも)」という母の心は変わらず
「回覧板や集金で感染して死ぬならそれまで、私はもう十分に生きた」という捨て台詞を残した。
彼女は素直ではない。
好きな人には思わず唾を吐きかけてしまうようなそんな愛情表現の持ち主だ。
今でこそ母から可愛い可愛いと言われる私だが
物心ついた頃から
「デブ」
「ブスッとして可愛くないね」
「ファッションのセンスがないのよあんたは」
「あんたはなーんにも考えてないんだねぇ」
というような否定の言葉と
機嫌が悪ければ物を投げ、頭を殴ってくるような母だった。
(今思えば母の気持ちも分からなくはないのだけれどね)
私は高校生の時に決定的な言葉を投げかけられ、
「ああこの人は私を愛していないんだ。。」とずっと心に深い傷を負っていた。
私も素直になれない娘だった。
でも私が母をゆるそう、会話を持とう、と努力し始めた20代
母はポツポツと私への愛情を語り始めたのだった。
「私にしてやれることは何もないと思ったから、中学高校6年間のお弁当は1日も欠かさなかったのよ」
と。
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母と会話する中で
「そんなに私を心配しないで。あなたの方がよっぽど危険なところに居ると思って、心配だけれども
心配していると言わないようにしているのだから」
と言われた。
そうなのだ。
こんな風にいつも何かに忙しくしている私は
前向きに頑張ろうとしている私は
日本の皆さんの安全を願う私は
今この世界で
危険な地帯に身を置いているのだ。
毎日数百人が亡くなっているところに居るのだ。
こんな非常時にまだ外へ出ている人が沢山いる、
このニューヨークでも一番感染者が出ていると言われている地域に住んでいる。
実際私はパフォーマーという職業でこの国に居ることを許された存在であって
移民ではないのだ。
だからこの国は私になんの補償もくれないし、
今後のビザのことを考えて政府からの補償は申し込まない方が良い、と弁護士から言われている状況なのだ。
実際今ビザの切り替え期間
ただでさえヤキモキする時期なのに
今はこの非常時で移民局も開いていないので審査はストップしている。
正直なところ
明日の私がどうなるか、全くわからない状況で毎日を過ごしている。
言えば私は肉体的にも精神的にも経済的にも法的にも
危険な状態に置かれている、というのが
現在の私の状況を説明するのに一番適切なのだと思う。
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自分の置かれている場所がわかれば全てが納得する。
私はずっと戦っているのだ、生き残るために
私はずっと怒っているのだ、この先の見えない状況に
私はずっと泣いているのだ、何故こんなにも頑張っているのに、私は報われていないのか、
私はずっと息を潜めているのだ、この国にい続けるために
私はずっとストレスを抱えているのだ、私の疑問に答えをくれない永遠とも思えるこの時間に
だから私は笑ったり、喜んだり、何かに熱中したり、感謝したりする反面
ちょっとの事で傷ついて、他人の対応に敏感になって、それでもそこに心を砕いて擦り減らして毎日を生きていたのだった。
日本の方達へコロナ感染に関しての注意喚起を発信していた頃
何度も話が噛み合わない、分かり合えないと思う瞬間が沢山あった。
今はスッとそれが理解できる。
私は戦場にいて、明日をもしれない命なのだ。
だからこそ身を潜めて暮らす毎日も輝かせたいと思うし、
自分と同じ目にあって欲しくない、賢い選択をして生きて欲しい、と
まだ戦争地域になっていない人等へ訴えたいと思ったのだ。
でも戦争をまだ眺める余裕のある場所のいる人達には
その感覚が通じない人もいて当然なのだ。
だって自分はまだ安全だし、外の世界は魅力的だし
そんなことを考えるよりはもっと考えなければいけない事が沢山あるのだから。
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書いて、すっきりしました。
自分を客観的に見る作業として書いてみました。
私はそれなりに元気です。
実際は心がいっぱいいっぱいである自分を認めました。
これからはもっと生きやすいようにどうやっていけるか
それを考えていこうと思っています。
長い文章でした。
読んでくださった方、本当に感謝しています。
今日も引きこもりのニューヨークから、私でした。