先日、「天文学者たちの江戸時代」(嘉数 次人著、ちくま文庫)を読んでいて、寛政の改暦を主導した高橋至時はプトレマイオスの天動説は否定していたものの、彼は地動説も支持せず、ティコ・ブラーエの天動説を受け入れていたとのこと。
これは彼が最初に学んだ「崇禎暦書」(明朝末期(崇禎年間、1631-1634年頃)徐光啓)に基づくもので、プトレマイオスの天動説を古図、ティコの天動説を新図としていたからとも。
また後にコペルニクスの地動説を知るに至るも、これを受け入れることはなく、 「地球を動くものとする説は頗る人々の疑怪を引く」という一文が残っています。
これがティコの天動説の概要(wikiより)です。
・地球が天球(恒星は球殻状に配置)の中心にある
・月が地球の周りをまわっている
・太陽は地球の周りをまわっている
・水金火木土は太陽の周りをまわりつつ地球の周りをまわっている
現存する資料で至時がコペルニクスの地動説を疑怪とした理由は残っていないようです。
「地球が太陽の周りをまわっているとすれば地球表面にいる我々は暴風にさらされる」などの素朴な疑問に科学者として適切な説明をつけられなかったのかも。
++++以下、wiki
なおティコ自身はコペルニクスを賞賛し、デンマークで初めてコペルニクスの理論を広めた人でした。
しかし自身が基盤を置いていたアリストテレス自然学の基本法則とコペルニクス理論を整合させることができず、コペルニクスの地動説を採用することはありませんでした。
一つにはティコがコペルニクスが用いた観測データに大きな観測誤差があることを理解していたからとも。
優れた観観測者であるが故、貧弱なデータを許せなかったようです。
また地球が太陽を公転しているとすると年周視差が観測されるはずですが、これが観測できなかったため。
年周視差が発見されたのは1838年なのでティコの時代から200年以上先のこと。
当時、恒星までの距離は随分と過小に見積もられていて、肉眼で観測するしかなかった時代であっても、観測できないのはおかしい、だから地球は不動なのだとなったようです。
,,,聖書の世界だとあくまでも地球中心なので、宇宙の広さなど大して大きくなかったのでしょう,,,
ティコは肉眼で天体を観測して非常に精度の高い観測データを残し、結局、これらデータを使ってケプラーが天体の法則を発表し、これに理論的な説明をしたのがニュートンなので、ティコが自身の観測データに絶対的な自信を持っていたのも頷け、結局その枠の中でのティコの天動説であったわけです。
ただしティコ天動説であれば、後にガリレオ・ガリレイによって観測された金星の満ち欠けを説明できますし、1616年にローマ教皇庁が太陽中心説は哲学と聖書の双方に背反していると宣言し、計算上の利便性のためにのみ議論可能であるとして、依然として天動説を支持する態度を明確化すると、ティコ体系はかなりの支持を獲得したようです。
wikiにはティコが自身の天動説を作った理由、そしてコペルニクス地動説に対する膨大な反論というか自身の考えが記載されています。
私自身の理解が足りず、かつ整理し直すのも煩雑なので、ここで止めます,,,
結局、アリストテレスの主張を深く理解していないと、これに基づくティコの考え方は理解できない,,,ようです。
++++
三脚ケースに大小2脚の三脚が入っています
奥のリュックにHAC125DX鏡筒
2台並べるの久しぶりなのでちょっと近すぎました
北がイマイチ判らず
DWARF3で赤道儀を合わせその方向にAM5を向けるという感じ
いやいや昨晩は暑かった,,,扇風機で顔を方向に風を送ってしのぎました
昨晩はモバイルルーターを忘れてしまい、数時間、無音で過ごすのかと覚悟したところ、Youtubeの自動バックアップ機能で、ベートーヴェンのバイオリンコンチェルトが入っていて、ロッテルダム響Isabelle Faustの演奏を繰り返し,,,



