だいぶ前に書きまして…辿り着かずですが
今回も辿り着いてはおりません。
息子はADHD診断済みで、今は高一です。高校生になってもう私のサポートが必要な場面はなくなり、毎日楽しそうに学校生活を過ごしています。
もちろん、ADHDという感じ(ギリギリ登校、提出物しこたま溜める、片付け何それ?みたいな)は変わらずですが、自分なりに工夫もできるようになり、私が口を挟む隙も減り寂しいなーと感じたりもしたりしなかったりで…
これから何回かに分けて、ADHDや療育界隈をスピりっちゃる探訪していこうと思ってまして…思えばいつの日からか、私は彼を“診断名で見ない”となっていきました。それができたのは、彼がいつだって“目の前の現実”よりも、“自分の世界”を生きていたからかなと思います。
診断済みの子はどんな風に成長するのだろう…と思っている、私と同じようにADHDの子の、子育てママさんがいらしたら、なんの足しになるかはわかりませんが、少しづつ思い出してシェアしていこうと思ってます。
爆誕から、幼稚園時代の息子氏
座ってますねー、、いやこれはイメージphotでして
──まず、座るということができなかった。
食事の時間も立って食べる。座るように促すと、その瞬間に体が跳ね返る。
とにかく、じっとしない。目が離せない。
危ないから、止める。止めても、もう次の動き。
「育てやすい」という言葉とは、まるで反対の世界を生きていた。
最初は家族の中だけの“ワチャワチャ”で済んでいたことが、幼稚園に入った途端、社会の枠にぶつかり始めた。
座らない=指示が通らない=目が離せない=手がかかる=登園NG
という流れに、見事にハマって…
私は焦り困っていました。
登園できないと、集団での経験が乏しくなる。
集団経験が乏しいと、息子はますます“多動”になるのでは?そんなストーリーを頭の中で作り上げてしまい、どうにかして座ってもらおうと必死になった。
絵カードで「こういう時は座ろうね」と教えたり、
好きな食べ物で釣ってみたり、
数を数える“着席ゲーム”を作ってみたり。
毎日がやんややんやの小さな作戦会議だった。
でも──
結果はいつも同じだった。
こちらが教えた側から、
息子はニコニコ
しながら逃げていく。
それはもう、
見事なまでの無邪気さだった。
あるとき、ふと私は気づいた。
この子は、その場所にいること自体に、まだなんのコミットもしていない。
息子にとって、「集団にいる」
ということ自体が、まだ選択
されていない世界だった。
先生の言うことを聞くよりも、その瞬間を冒険する方が、この子にとっては大事だったのだ。幼稚園に行く事は好き!だけどジッとはしないもん!みたいな様子でした。
でも私は
「社会性は集団でしか育たない」と
思い込んでいた。
集団に参加できないと
“何かが欠ける”という観念に、
どっぷりと浸かっていた。
その頃、ある先生(副園長)に言われた一言が、今でも胸に残っている。
〇〇くんは、お友達を
物だと思っているようです……
私は、息子がそんなふうに見られてしまう存在なのかと、ただただ悲しかった。
だからといって、家に閉じ込めるわけにもいかず、
誰かに相談しても、理解はされず、「しつけの問題」だと断じられることもあった。
発達児の親同士でもみんな微妙に症状は違うので、助け合いながらもお互いの子供を最大限に尊重しあう、仲良しというか仲間だったと思います。
私は元々、気が弱くてなんでも
受けてしまう性格だった。
だからこそ、このことは
私にとって、とてつもなく
大きなテーマだった。
自分のことなら、いくらでも変えられる。けれど、息子はどう成長していくのか?どうしたいのか?
まわりとうまくやっていけるのか?それは、私の想像やコントロールを超えた世界だった。
けれど私は、だんだんと気づきはじめた
彼がいつだって“目の前の誰かの作った世界”よりも、“自分の世界”を生きていたから。だから私は、彼を“診断名で見ない”と決めた。それができたのは、この子は、
私の“ねばならない”を
壊しに来てくれた。
この子を“変える”のではなく、
この子を通して、
私が“変わる”必要があった。
そして──私の子育ては そこから、ゼロから
静かに始まり直したのです。
続きはまた、別の記事で書いていきますね。
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