こすらなくてもスプレーして、あとは流すだけ──
そんな広告の言葉に、ふと救われたような気がして、私たちはそれを買った。
「もう、頑張らなくていい」
「簡単に綺麗になるなら、それでいいじゃない」
そう思わせてくれるあの文句は、まるで“もう苦しまなくていい”と語る癒し文句のように響いた。
(ちょっと表現がエモすぎますが続けますわ)
だけど、実際に浴槽にスプレーして、水を流してみたら、ほんの表面のヌルつきは取れた気がしたけれど、
ふちの黒ずみや、排水口のぬめりは、そのままだった。最初から、「そこまで効かないだろうな」と
どこかで思っていた。
それでも選んだのは、
もう擦りたくなかったからだ。
この“もう擦りたくない”という感覚──
それは、魂がすでにどこかで摩耗しているサインだ。
そして、それと同じことが、
私たちの願望実現や
引き寄せのアプローチでも起きている。
「ただ唱えるだけでいい」
「思えば現実になる」
「感じれば叶う」
──これらの美しい言葉も、
疲れた魂には“スプレー”のように響く。
擦らずに済む方法。手を汚さずに済む方法。
現実に深く触れずに、変わったことにできる方法。
でも本当は、知っている。
こすらずに落ちる汚れなど、ない。
流すだけで流れてくれるような、
心のこびりつきなど、ない。
では、なぜそれでも、
“効かないとわかっているスプレー”を選ぶのか?
それは──
「もう、触れるのが怖いほど壊れているから」だ。
魂の中で、命の中で、
深いところにある通路──
エーテル回路が、もう何かに触れることすら痛いほど、断線し、詰まり、焼き切れている。
この“傷”は、いくらポジティブな言葉をかけても反応しない。むしろそれらの光の言葉が、かえってまぶしくて、見えない汚れに触れずに済ませようとするスプレーと同じ役割を果たしてしまう。
だから必要なのは、
まずこの現実を認めること
「私のエーテル回路は壊れている」
「願うことすら、もう痛い」
「引き寄せも、願望実現も、私を癒してはくれなかった」
この認識に立ったとき、
人は初めてゼロポイントへと向かう。
ゼロポイントとは、
すべての思考・感情・期待・
コントロールを手放し、
完全な“無”としての自己に戻る地点。
擦るのをやめたのではない。
擦る力も、流す力も、信じる力すら尽きたその先に、
初めて訪れる“中心点”。
点を感じたからこそ図形が書ける
神が創造した神聖な図形をなぞるには
自分が点という中心点を感じなければ
図形は引けない
内なる中心点が発生しなければ、
神聖幾何学にアクセスできない。その他の諸々の
この世界のプログラム
舞台装置の摂理にもアクセスできない。
そこには、押すことも引くこともできない沈黙があり、けれど、その沈黙の中に、壊れていたエーテル回路が再配線を始める余白が生まれる。
ゼロポイントとは、
「もう何もしない」ことではない。
「もう無理に生きようとしなくても、生かされていた」と思い出す地点である。
そこに立ったとき、はじめて、
エーテルの回路は“無理に回そうとされること”から解放され、本来の自然な流れを思い出し始める。
だから、願いを放つ前に
まずこのプロセスを歩もう。
願うこともできないあなたが、
実は最もゼロポイントに近い場所にいるのだと、
知ってほしい。
そして、ゼロから再び流れ始める命の通路に、
触れてほしい。
エーテル回路は、“願い”ではなく
“沈黙と許し”の中でこそ、
修復される。
その先でまた、言葉が命を通すようになる。
その先でまた、願いが現実になるのではなく、
生きていることそのものが現実の奇跡になる。
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