まず、コレ!があって13年後の今!なんすけども。

ゼロポイント?無次元?妄想か?


私自身がまず、「何もしたくない」と思ったことがきっかけでした。ほんとうに、心の底からそう感じたんです。頑張ることも、誰かに伝えることも、意味を探すことすらも、全部「もういいや」って思った。

だけど、その感覚を否定せずに、静かに抱えてみたら、ふしぎと胸の奥が、すごく静かになったんです。


あ、これは「止まった」のではなく、

「還っている」んだなって。

そんなふうにして触れたのが、“ゼロポイント”でした。

つーかワケワカメだから2人の大先生に教えてもらいました!(もっとワケワカメかもだけど、言葉にやはり限界があるさーなんくるないさー)


ゼロポイントとは何か──

シュタイナーが語った霊的認識の三段階

①イマギナツィオーン(Imagination)意識

②インスピラツィオーン(Inspiration)意識

③イントゥイツィオーン(Intuition)意識

この三つの階梯と照らして見ると、

ゼロポイントは「何もない」のではなく、


イマギナツィオーンを通り抜けた後の沈黙にあたる。イマギナツィオーンでは、内的に象徴的な映像が立ち上がる。それは想像ではなく、感覚器官を越えて“見える”霊的な映像である。だが、ゼロポイントではその映像すらも静まり、まだ何も語られていない“響きの予兆”のような場がひらく。そこでは、②インスピラツィオーンの入口がうっすらと感じられる。言葉なき存在の語りかけ、宇宙的な意志の音なき声、それがまだ“響いてはいない”が、空気の中に“これから何かが語られる”気配が満ちている。

シュタイナーが言うゼロポイントとは、

②インスピラツィオーンが芽吹く前の、

魂の静けさと世界の沈黙がぴたりと重なる交差点。そこにとどまる者は、学ぶ者ではなく、待つ者。聞こうとする者ではなく、全身で“場にいる”者。

ゼロポイントとは何か──

ダスカロスの教えに照らして

それは「パーマネント・アストラル・アトミック・サブスタンスに沈む直前の、完全な沈黙の層」に近い。(何これプロレス技?)

ダスカロスは、人間の存在を肉体・エーテル体・アストラル体・メンタル体・そして神聖スパーク(The Divine Spark)から成るものと教えた。ゼロポイントとは、アストラル体における想念や感情が完全に鎮まり、メンタル体すら沈静し、神聖スパークがそれ自体で光り出すような、極めて純粋な意識状態に入る入口である。

ダスカロスの語る「静止した意識」、つまりいかなる波動も起こさず、ただ存在しているという“臨在”のあり方は、ゼロポイントに一致する。そこでは祈りも瞑想も終わっており、意図すらない。ただ、「神との一致」だけがゆっくりと自覚されはじめる。ダスカロスが強調したのは、霊的発展とは“光を得ること”ではなく、“自己が本来光であったことを思い出すプロセス”だということ。ゼロポイントは、その思い出しの第一段階であり、人間の自我がその静けさの中で自己を手放し、神聖スパークの呼びかけに、耳を澄ませる場所である。そこにはビジョンも、声も、導きもまだない。だが、その何もなさが、最も深い神の臨在を運んでいる。


    

ダスカロスの言葉を借りるなら、

ゼロポイントは「真の祈りが始まる前の、魂の膝まずき」である。エゴが働かず、感情も動かず、ただ意識だけが、「存在それ自体」と共にある時──ゼロポイントは開かれ、神聖スパークは、全ての次元を超えて、“わたしは在る”という唯一の祈りを放ちはじめる。


シュタイナー的に一言で言うなら:

「霊的認識が語られる前の、

沈黙という聖なる予兆」

(補足)イマギナツィオーンを越え、インスピラツィオーンが立ち現れる前の、完全な内的静けさ──思考・感情・意志が純化され、宇宙的存在との交信が“まだ語られていないのに確かに在る”状態。


ダスカロス的に一言で言うなら:

「神聖スパークが

自らの光に気づき

はじめる無言の祈りの場」

(補足)アストラルやメンタルの波動活動が沈静し、

個としての自己が沈み込んでいく中で、内にある神聖スパーク(神のひとかけら)が、「わたしは在る」と静かに思い出していく霊的な始まりの場。


どちらも「ゼロとは何もない」

ではなく、“語られる前の満ちた

静けさ”としての場である

という認識で一致しています。


なんとまぁ、語られる前を語ろうとする

2人の大先生に畏敬の念しかありません


ゼロポイントって、すごく不思議な場所


何か特別な知識がいるわけでも、瞑想が上手じゃなきゃいけないわけでもなくて、

ただ、「今ここで、何者でもなくていい」と自分にそっと言えたときに、その場所はふわっとひらいてくれる。「無次元化」って言葉があるけれど、それは、“もう、分離の物語を降りていいよ”って魂が静かに頷くような感覚です。


でもね、ここで少し気をつけたいことがあるの。

それが「早くそこに行かなきゃ」とか、「まだそこにいない自分は遅れてる」とか、そんなふうに受け取られてしまったら、魂がほんとうに歩きたかった道を、知らず知らず曲げてしまうかもしれない。

無次元化は、目指すものというより、ある日ふと、魂の奥がやわらかく解けて、「もう還ってもいい」と感じたときに起きる。


それまでは、ちゃんとこの世界で、泣いたり、

迷ったり、怒ったり、笑ったりしていい。

というか、それを味わい尽くすこと自体が、

魂にとって大切な体験なんだと思う。


ゼロポイントは、「無」ではないんです。

なにも持っていないのに、なにも欠けていない場所。それに触れたとき、人は「欲しい」から行動するのではなくて、


「満ちている」から

自然に動き出したくなる。


それはとても静かな、でもたしかなエネルギーで、

「何かしなきゃ」と思って動いていた頃とはまるで違っていた。こういう感覚は、言葉で表すのがむずかしいけれど、もしかしたら、同じような静けさを知っている人がいるかもしれない。もし今、あなたの中に


「もう、何者かにならなくてもいいのかも」という感じがふっと芽生えていたら、それはきっと、魂がゼロポイントに近づいているサインかもしれない。

でも、もしそうじゃなかったとしても、ぜんぜん大丈夫。どんな段階にいても、それはまぎれもなく必要なプロセスで、焦らずに、どこかと比べずにいていい。

無次元化が起こる人と、まだ起こらない人がいるのは、優劣じゃなくて、それぞれの魂の旅の「季節」が違うだけ。桜が咲く頃もあれば、種を抱えて眠る冬もある。どちらにも、神聖な意味がちゃんとある。


そして、もしあなたがいま、何もしたくない、何者にもなりたくない、ただこの場所にいたいと思っているなら、それはきっと、魂の静かな帰還が始まっているのかもしれない。ゼロポイントも、無次元化も、けっして特別な人のものじゃなくて、ほんとうに自分に正直になった時に、誰にでも訪れる可能性があること。

だからこそ、今ここにある“そのままの感覚”を、

まずは大切にしてみてほしい。この静けさの中に、

本当の道が、もうすでに敷かれていることに、

いつか気づけたらそれでいいんだと思う。


もうゼロポイントでっせ!って方は一緒に遊ぼう^_^

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