下記を書いたあとに、
私の器には何を入れる選択をして来たのか?
と、再度、考えたわけです…
「どっちでもない自分」に戸惑っていた頃
昔から私は、熱くなれない子でした。
「こっちが正しいよね!」「これは間違ってる!」と語る人たちの熱に、どうしても共鳴できない。
かといって、冷めているわけでもない。
どちらの気持ちも、なぜかよくわかってしまう。
だから、どちらにも加担できない自分に、
ずっと劣等感がありました。
白黒つけられない。
誰かに肩入れして怒れない。
自分の感覚が信じられなくなる──
「私って、どこにも属せないな」
そんな疎外感を、長く心に抱えていました。
中立という選択肢に出会って
そんなとき、「中立性」という言葉に出会いました。
中立=どちらにも傾かず、全体を見守る視点。
その定義を読んだとき、心が震えました。
「これって、私の在り方そのものじゃないか」
ずっとダメだと思っていた自分の気質に、
やっと名前がついた気がしたのです。
中立でいるということは、
どこにも属さず、でもすべてと繋がる可能性でもある。
それが、私の「器」としてのかたちでした。
人間は“器”である
人間とは本来、器(うつわ)です。
自分の中に何を満たし、
どの視点を通して世界を映すかで、
まったく違う人生が現れます。
誰かの正義も、
誰かの怒りも、
何かの光や闇さえも──
その器に、どんな“質”が流れ込むかで、
まったく違う存在のようになっていく。
だからこそ、自分がどんな質の器で在るかが問われるのです。
そして中立者とは、
偏らずに“全体”を容れようとする、特別な器なのだと思います。
中立者のギフト
中立者には、独自のギフトがあります。
• 両極の視点を同時に理解できる。
• 対立の間に立ち、対話を生む可能性がある。
• 善悪を超えて、本質や構造を見る力を持てる。
中立は、ただの傍観ではありません。それは「両方を受け止められる強さ」でもあります。
この強さは、人の痛みや真実に共鳴しながらも、呑まれずに、軸を保つことができる力。
器としての中立者は、
偏りからではなく、調和と観照によって世界に関わっていきます。
中立者の敗北
でも、中立者であることは決して楽ではありません。
• はっきりした主張がないと見なされ、信頼を失う。
• どちらの味方でもないことで、非難される。
• 「安全な場所にいるだけ」と誤解される。
実は誰よりも真剣に、
誰よりも深く両方を感じているのに──
中立でいることは、時に「存在していない」ように扱われる痛みを伴います。
器は、静かで目立たない。だからこそ、「空っぽ」だと誤解されやすい。
でもその沈黙の奥には、世界を統合する可能性があるのです。
中立とは、センタリングからはじまる聖なる道
やがて私は気づきました。
中立であろうとする願いは、
「センタリング(内なる中心軸に戻る)」という魂の動きから生まれていたのだと。
自分の感情や思考、信念や痛みをすべて見つめ直し、
一度、静かな中心に戻る。
そのうえで、外界に対して、
ゆるぎない器として関わる。
これが、中立という道の真意でした。それは「聖なる道」です。
誰にも支配されない。
でも、誰からも切り離されない。
自分自身の意志で、“全体性”と共鳴する選択。
だからこそ、中立者は「真の器」として──自分だけでなく、世界のための器になることができるのです。
スマホ画面の向こうにいるあなたも…
あなたの旅の途中である地上生活でも、
本来の意志や意識を
ご自身の内なる器に込めて、
堂々と精一杯生きてみませんか?
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