──その器、ほんとうに“自分”ですか?



最近、「自分軸で生きよう!」とか「自分軸を整える」みたいな語り口が流行しているようです。

中には「自分プラス軸!」みたいな、もはや足し算なのか掛け算なのかもよくわからない表現すら見受けられます。

この“自分軸ブーム”の背景に、何か時代的な叫びがあるように思えてなりません。

まず、そもそも──「自分ってなんでしょう?」

でも多くの人は、その“自分”がよくわからなくなっているからこそ「軸を持ちたい!」と思っている。

ということは、「自分が何者かを見失っている」状態が先にあって、それをなんとか修正しようとして、“自分軸”という言葉をつかまえているような気がします。


自分とは「器(うつわ)」である

人間とは、「神聖な器(うつわ)」です。意識・感情・信念・情報・存在など、いろいろなものがその中に“入ってくる”構造になっています。

そして器には必ず“中身”が入っています。それが自分っぽく感じられるときもあるし、「なんかこれ、他人の考えじゃね?」と思うこともある。


でもどちらにしても、

常に何かが“入っている”。


たまに坐禅や瞑想などで「何も入ってない」という無心状態に入ることもあるかもしれませんが、それですら一種の“空”という状態を体験しているわけで、完全な“無”ではありません。


「自分軸を持ちたい」という欲求の正体


人が「自分軸を持ちたい」と思うとき、それはだいたい、

・なんだか今の自分がしっくりこない

・誰かに振り回されている気がする

・本当の望みがわからなくなっている

・選択したのに後悔している

といった

“不都合”を感じている状態です。

つまり、

器の中の「何か」が合っていない。

その「合ってなさ」に気づいたとき、

私たちは「自分軸を整えよう!」と

思いはじめるのです。


自分軸とは何か?──定義してみる


私なりに定義してみます。

「自分軸がある」とは、

器の中に入っているもの──

思考・感情・行動・選択──がすべて、

・自分で選んだものであり

・自分の責任で保持されていて

・その結果にも納得している状態

この“納得と責任”が伴って初めて、

「自分軸がある」と言えるのではないかと思います。



だけど──悩んでいる自分が選んだ選択に、自分軸はあるのか?


ここからが本題です


もし「自分とは何か」で迷い、悩み、グラグラしている状態の“自分”が、

「これが私の選択です!」と選んだものがあったとして、

果たしてその“選択”は「自分軸によるもの」と言えるのでしょうか?

つまりこういう問いです。

「ブレている存在がブレたまま選んだ答え」に、どれほどの信憑性があるのか?

「自分が分からないまま決めた選択」は、本当に“私のもの”なのか?

ちょっと口が悪くなるけれど、たとえるならこうです。

「バカが学んでもバカのままじゃね?」

「バカな自分が選んだことを“自分軸”と呼んでいいの?」

(口が悪くて申し訳なさすぎ、あえて表すならです)


いや、もちろん学ぶことは大事だし、誰もが最初は未熟なんです。

でもね、「学ぶって何か?」という定義すら間違っていたら、何を学んでもズレ続けるんですよ…



「学ぶ」とは何か?2つの定義の違い


ここで「学ぶ」という行為について、重要な区別をしてみたいと思います。

1つめは、「模倣としての学び」

これは、知識を吸収したり、誰かの成功法則を真似したり、本を読んだりすることで、頭に情報を詰め込んでいくことです。

つまり、外から与えられた“答え”を自分の中にインストールすること。


2つめは、「変容としての学び」

これは、“知らなかった自分”が崩れ落ちて、“本当の自分”が立ち上がるような体験です。

答えが与えられるのではなく、答えを生み出す器そのものが変わること。


前者は、知識を「詰め込む学び」。

後者は、自己が「生成される学び」。


自分軸とは、後者の“生成された自己”の上にしか、本当には立ちません。