昨日はお葬式で、

朝から一日中自宅を離れていました。



半年前に祖母を。

ちょうど半年後に義理の祖母を。

大切な身内を見送るのは、

やはりとても寂しさを覚えました。

棺のなかの祖母はとても安らかなお顔でした。

孫やひ孫たちにたくさん愛を伝えられ

静かに肉体を手放し、旅だっていきました。



お通夜の時から

感じていたことがありました。



私は実家は曹洞宗。

嫁ぎ先は浄土真宗。



これまで父方の義理の祖母。

そして、母方の義理の祖父。

結婚してから亡くなったのですが

お葬式に出たことがありませんでした。



それは息子を身篭り、切迫流産の診断で

入院していたり、、

実の祖母を引き取り、認知症がひどくなり

ひとり自宅に残せなかったり、、

皆の優しい配慮で参列したことがなかったんです。



ですので、初めての嫁ぎ先のお葬式。

そして初めての聞き慣れないお経を聞いていました



すると、聞き慣れないお経が

潜在意識に呼びかけたようで

古い記憶の扉が開き、古い記憶が溢れ出しました



お通夜の時は、全て息子との記憶。

申し訳なかった、可哀想なことをした。

自分責めをした記憶ばかりです。



あの時はあんなことをして(言って)ごめんね

よく頑張ったね

ありがとう

それぞれのシーンで記憶に続きをイメージし

記憶の中の息子を抱きしめ続けました



翌日のお葬式では、さらに古い記憶が蘇り

18歳の私であったり

そういや、そんなことあったなあという記憶が

次から次へと出てきます。



頭の中でひとりワークをし

内観しながら淡々と見つめていきました。

これは、ただ記憶が蘇ったのではなく

今再び、この出来事に向き合っているんだな

と自分でも理解できました。

思い出させることが、見えない存在からの

メッセージのようにも感じました。



その課題についての、

答えをもう私は持ち合わせており

同じことを繰り返すことのないように

そんなメッセージだと思います。



私の答えは

誰かの目を気にする必要はなかった

それだけでした。



息子に対しても

自分に対しても

全ての悲しみや苦しみの記憶は

あの時、誰かに合わせよう、または

誰かの目を気にして行動した結果ばかりでした



習い事だって、辞めさせてよかった

仕事だって、辞めてよかった

誰がどう言おうと、楽しめば良かった



記憶自体は、些細なことです

だからこそ、気に留めずにいたけれど

深いところで私にまだ『気付いて欲しい』と

訴えかけていたのでした。



不安ベースで生きてきて

この行動をしたらもっと不安になる



そう信じていたからこそ

取ってきた行動ばかりの記憶。。。



私がこれから伝えていきたいことが

より、リアルに。

そしてはっきりと見えたようにも感じました。







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