先日このブログでもご紹介しましたが,令和4年11月10日に,自民党法務部会が法制審議会家族法部会案を承認したことで,日本の法律制度において,「離婚後共同親権」「子の連れ去り原則違法化」が実現する可能性が高くなりました。

 

 

 

 

 

 

私は,今回の法改正を促した「社会的因子」として,2人の存在があったと思っています。1人は,子を連れ去られて面会を制限されている別居親の方々です。そしてもう1人は,連れ去られた子ども達です。

 

 

 

 

 

 

元最高裁判事の団藤重光さんは,最高裁昭和57年7月16日決定における補足意見として,以下のように述べています。

 

 

 

「わたくしは,もともと共謀共同正犯の判例に対して強い否定的態度をとっていた(団藤・刑法綱要総論・初版・302頁以下)。しかし,社会事象の実態に即してみるときは,実務が共謀共同正犯の考え方に固執していることにも,すくなくとも一定の限度において,それなりの理由がある。一般的にいって,法の根底にあって法を動かす力として働いている社会的因子は刑法の領域においても度外視することはできないのであり(団藤・法学入門129-138頁,206頁参照),共謀共同正犯の判例に固執する実務的感覚がこのような社会的事象の中に深く根ざしたものであるからには,従来の判例を単純に否定するだけで済むものではないであろう。もちろん,罪刑法定主義の支配する刑法の領域においては,軽々しく条文の解釈をゆるめることは許されるべくもないが,共同正犯についての刑法60条は,改めて考えてみると,一定の限度において共謀共同正犯をみとめる解釈上の余地が充分にあるようにおもわれる。」

 

 

 

 

 

 

私はこの団藤重光さんのご意見を拝読したことから,「法の解釈を促す存在とは,何だろう」という疑問を持ちながら,弁護士としての日々の訴訟活動を行っているのです。

 

 

 

 

 

 

そして,冒頭でお話したとおり,今回の「離婚後共同親権」の法改正の動きは,子を連れ去られた別居親の方々と,連れ去られる子ども達との,双方の心の叫びが,社会的因子として影響したように思っています。

 

 

 

 

 

 

さらに言えば,21世紀の現代において,子を連れ去ればその後の監護者指定や親権者指定に有利になるという,到底法治国家とは思えないような事態が,人々の心の中の「正義観と公平感」に影響を与えたようにも思います。

 

 

 

 

 

 

日本と同じ「児童の権利条約」の批准国であるオーストラリアは,同条約を批准すると同時に,家族法を全面改正しています。同国の家族法には,もはや「親権」という言葉はないのです。全ての場面について子どもを権利主体として位置付けて,親は「親責任」を負うことになっています。それが条約の内容なのです。

 

 

 

 

 

基本的人権は,人が人として生まれたことで当然に保障される権利です。基本的人権は,国家や憲法が始めて与えたものではなく,人である以上当然に有するのです。

 

 

 

 

 

諸外国では,親子の関係や面会交流は,基本的人権として位置付けられています。日本の裁判上でも,親による子の養育関係は,親にとっても子にとっても「人格的利益」であると判示されています(東京高裁令和3年10月28日判決)。

 

 

 

 

 

 

そうであるならば,諸外国で保障されている「離婚後共同親権」や「子の連れ去り禁止」の諸規定が,日本法においてだけ保障されないことは背理であることは明白だと思います。児童の権利条約で指向されている「チルドレン・ファースト」の理念が,今後行われる予定の法改正手続において実現していくことを,今から楽しみに待ちたいと考えています。