私が担当させていただいた医療訴訟で,当事者双方に無事和解が成立したことを,TVや新聞で取り上げていただきました(NHK2016年9月14日付放送のニュースを要約)。

 

 

「治療後視力悪化で過失認め和解

 

 

昨年(2015年)4月,病院で糖尿病による目の病気の治療を受けた岡山市の56歳の男性が,治療後に痛みなどを訴えたのに適切な治療を受けられず視力が著しく下がったとして慰謝料などを求めていたのに対し,病院側が過失を認め1300万円を支払うことで和解が成立しました。・・

 

 

男性の代理人を務める作花知志弁護士は『病院側が過失を認めている点は誠実な対応をしてもらえたと感じている。再発防止に取り組んでもらいたい』と話していました。」

 

 

私がこの事件を担当させていただきながら考えたことに,「生じた損害を金銭の面から評価することはとても難しい」ということがあります。

 

 

私の依頼者の男性は,片目の視力を失いました。ではそのことを金銭で評価するというのは,一体どのようにすればいいのでしょうか。

 

 

法律上「損害を賠償する」とは,「発生した損害を社会的に公平な分担をする」という意味です。そして,視力を失うことで生じる労働能力の低下,精神的苦痛等々。損害賠償理論としては当然一定の計算方法が存在しています。でも,はたしてそれは私の依頼者の男性が失った存在の代替となっているのだろうか,という気持ちが,ずっと私の心の中にあったのです。

 

 

私が法律家を志すきっかけとなった本『アメリカンロイヤーの誕生』(阿川尚之著,中公新書)には,弁護士でありながら大学のロースクールで「契約法」を教えているダンチグ教授のお話が登場します。

 

 

学生に慕われる人柄であり,同時に腕利きの弁護士でもあるダンチグ教授は,関心を持つ契約法分野について,弁護士としての経験を踏まえてとても斬新な発想で講義を進めていきます。

 

 

そんなダンチグ教授の講義の中で,私が感じたのと同じテーマが登場する場面があるのです。それは,整形美容手術を受けた結果,鼻の形が変になってしまった女性が,病院に対して損害賠償を求めた裁判の話です。

 

 

その裁判に関心を持たれたダンチグ教授は,調査を行い,陪審制度の裁判で認められた損害額は,一体どのような過程を経て算定されたのか,というテーマを調べて行かれます。

 

 

そこでダンチグ教授が感じたのは,「正常な鼻の形を失う」ということを金銭面から評価することの難しさでした。その過程は「人は決して完全ではない」という側面の現れでもありました。ご関心をお持ちの方は,ぜひ『アメリカンロイヤーの誕生』を手に取ってご覧いただければと思います(『同書』50-51頁)。

 

 

私が担当させていただいた事件と事案は異なりますが,私が今回の裁判を通じて感じていたことは,ダンチグ教授が感じられたことと共通しているように思っています。公平とは何か,人が失う物を他者が補うことはできるのか。人が失った物を完全に償うことはできるのか。

 

 

それらのことは,結局人の幸せとは何か,人生を支えるものは何か,社会の公平感を支えるものは何か,という,決して目には見えない,私たちの心の中にだけある存在を知ることを意味しているように思います。それはつまり,目には見えない大切な存在を,私たちや社会は金銭で償うことができるのか,という哲学的な問題に結びつくのかもしれません。