昨年(2015年)拝見した映画で,とても印象に残った作品があります。第2次世界大戦下,リトアニアに外交官として赴任されていた杉原千畝さんが,ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ難民に対し,外務省の命令に反して日本の通過ヴィザを発給したことで,6000人もの命を救った実話を元にした作品『杉原千畝』です。



ユダヤ難民の人々を救えるのは日本領事館に勤務していた杉原さんしかいませんでした。でも外務省はそれを認めないのです。



日本のルールか,それとも人命なのか。悩んだ杉原さんは,命を救う方を選びます。



杉原さんは,戦火が広がる中,リトアニア日本領事館が閉鎖された後も,街のホテルや駅で,ヴィザを発行し続けたのです。



戦争が終わり,杉原さんは外務省を追われます。でも杉原さんは次のように言われているのです。



「自分の行動は日本政府をがっかりさせたかもしれないが,行動しなければ神をがっかりさせただろう。」






実は,第2次世界大戦をめぐり,全く逆の問題となった例がドイツの裁判で争われています。「壁の射手」事件と言われる裁判です。



旧東ドイツでは,ベルリンの壁を越えて西ドイツに逃亡しようとする者に対して,国境警備兵が銃器を使用し,警告に従わない場合は射殺することが法律上正当化されていました。



ところが,ドイツ統一後,旧東ドイツ時代にその法律に従って越境者を射殺した4人の国境警備兵が,旧東ドイツ刑法上の故殺罪という殺人罪の類型に該当するとして起訴されたのです。



この4人の国境警備兵の弁護人は,射殺行為が行われた行為時には旧東ドイツの国内法上適法とされていたことを,この4人はしたにすぎないのだ,行為時に適法であった行為を事後的に犯罪として処罰することは,ドイツ憲法が規定する遡及処罰禁止の原則に抵触する,と主張しました。



でも,ドイツ連邦憲法裁判所は,1996年の判決で,体制の異なる国家の不法な法が問題になっている本件では,遡及処罰禁止の原則の適用が除外される,として,4人を有罪としたのです。





このドイツの「壁の射手」事件の裁判では,4人の国境警備兵の立場からすると,自分たちは旧東ドイツの国内法に従っただけである,と主張がされたのですが,ドイツ連邦憲法裁判所はその主張を認めませんでした。



いわば,国内法として存在していたはずなのに,後からその国内法を上回る規範が存在していたのであり,人である以上その上位法に従わなければならなかった,という判決と評価することもできますね。



実はドイツには,著名な法学者であるラートブルフという方がいました。彼は,「法実証主義」という立場の代表的な存在です。



「法実証主義」とは,「実証主義」を法学にも及ぼそうとする立場でありまして,法律のみが法学の対象であり,それ以外の社会意識や倫理など,いわば法律として紙に書かれていない存在は,一切考慮すべきではない,という立場なのです。



そんなラートブルフが直面した問題が,ナチスドイツ時代の悪法問題(ナチス立法の戦後処理問題)でした。



道徳的に著しい悪を内容とする法であっても,それが法という形式を備えている限り,つまり紙に書かれた活字としては,その外の法律と何等変わらないことになります。



では,そうした法も,「法」である以上,拘束力,社会的妥当性を肯定されるのか,それともそれを否定されるのか。



第二次世界大戦中にドイツでナチス立法に従って行われた行為を,ナチス体制崩壊後に,どのように裁くべきかが大きな問題となったのです。



この問題に直面したラートブルフは,それまで採用していた自らの立場である「法実証主義」の立場を変更するに至ったのです。ラートブルフは,正義との矛盾が堪えがたい程度にまで達している法律は,「制定法の形をとった不法」であり,法としての妥当性を欠くのだ,その結果として,正義の核心をなす平等の理念を否定した法律は「法としての資格」を失うのだ,と主張したのです。






上で御紹介したドイツの「壁の射手」事件の裁判で,裁判所が採った有罪という結論を導くには色々な法律構成が考えられるのですが,私としましては,旧東ドイツの立法機関が制定した法律をも上回る効力を有する自然法が存在していたのだ,それは国家という存在を超越した存在であり,その自然法が守ろうとしているのが基本的人権なのだ,



旧東ドイツの国内法は,元々この自然法に反する存在として,形式的には法律として存在していたとしても,実質的にはその効力を失っていたのだ,と考えるべきなのではないかな,と思っています。



杉原千畝さんがされた行動もそうですね。杉原さんの行動は,形式的には外務省の内規に反するものでした。いわばそれは,法律違反です。



でも,第2次世界大戦から70年過ぎた現在において,誰も杉原さんを非難せず,逆にその功績が称えられていることは,外務省の内規を上回る何かが存在していたことを意味しています。



杉原さんはそれを「神が喜ばれた」と表現されました。それは,杉原さん亡き社会を生きる私達に,とても大切なことを教えてくれているように思います。



「紙に書かれた法律」そのものが,社会の目的では決してないのです。法律は社会の目的である正義を実現する手段であり,正義の前においてはその効力を失うことすらあるのです。



私達は,その法律を支えている,目には見えない存在を大切にしていかなければならないことを,杉原さんの行動が教えてくれているように感じます。