『アクロイド殺し』は,1926年に発表された,アガサ・クリスティーの代表作の1つとして挙げられる作品です。アガサ・クリスティーの代表作というだけでなく,推理小説の世界における代表作として,「世界の推理小説歴代人気ランキング」などの特集があると,やはりアガサ・クリスティーの代表作である『そして誰もいなくなった』などと共に,必ず上位にランキングされている作品です。



推理小説ですと,①殺害された被害者と,②犯行を疑われる複数の登場人物と,③犯人を推理によって追い詰めていく主人公,のそれぞれが登場して,そのストーリーが作者によって客観的に描写されていくことが通常ですね。



それに対して,この『アクロイド殺し』の最大の特徴は,ストーリーが登場人物の1人の語り口調によって進行していくことにあります。あくまでも,その登場人物の目から見たストーリーしか読者は分からず,またその登場人物の目を通してストーリーが展開されていくため,読者はまるでその物語に自分が参加しているような感覚を持ちながら,読み進めていくことになるのです。



そして,この『アクロイド殺し』でも,名探偵ポアロが大活躍するのです。






「主観的」と申しますと,「人の認識」「人の記憶」に基づいたものですので,そこに誤りが生じる余地はないように思えそうですが,実は「人の記憶」さらには,その「人の記憶」に基づく証言や供述は,とても不確かなものであることが知られています。



「人の記憶の不確かさ」について,私がとても印象に残っている話があります。ある「裁判における事実認定」についてまとめられた本に,裁判官についてのエピソードが載っていたのです。



それは,現在はもうベテランの経験を積まれた裁判官が書かれた実話です。その方が東京地裁で新任の裁判官として働き始めることになり,そのほかの同期の裁判官5人と共に,勤務初日に登庁しました。



裁判所で6人そろって東京地裁の所長へのあいさつに行き,そこでそれぞれが民事事件担当の部に配属になるのか,刑事事件担当の部に配属になるのかが決まったのだそうです。



実は上の本に書かれていたのは,数十年後にその6名の新任の裁判官と,あいさつを受けた当時の所長が,久しぶりに食事でもしよう,ということになった時の話なのです。



所長は,自分の記憶に基づいて,その日6名の裁判官の配属が決まった経過について,6名それぞれが希望を言い,誰も希望が重複等していなかったので,そのまま配属先が決まったよね,と話しました。



すると,その新任だった6名の裁判官からは「いや,そのような決まり方ではなかった」という意見が出たのです。



そして,ではどのようにして配属先が決まったのか,という経過について,6名がそれぞれ自分の記憶を話すと,なんと6名全員が違う記憶を持っていた,というものなのです。






このエピソードは,「人の記憶」「人の主観的認識」がいかに不確かなものかを示唆するものだと思います。



例えば,裁判で事実が争われる場合には,通常「Aさんの記憶に基づく話と,Bさんの記憶に基づく話とが相対立する内容である」ような場合に,どちらの記憶に基づく話が信用に値するのか,という評価が行われることになります。



そして,その裁判における事実認定では,「Aさんの記憶に基づく話とBさんの記憶に基づく話のどちらが客観的な証拠に合致しているか」という観点から,その評価が行われることになります。



客観的な証拠(○月○日の天候は雨であった,○の部屋の天井の高さは○メートルであった,など)に合致していればいるほど,その人の話は信用できる,との評価がされることになりますし,逆に「○月○日に会社への通勤途中でXさんを見ました」という証言は,その日は日曜日で勤務が休みであったはずである,という客観的な証拠により,その信用性が否定されることになるのです。







近時,刑事事件で再審が行われ,再審無罪判決が出される事件が続いていますが,その多くでは,捜査段階で被告人が「自白」をしているのです。



なぜ捜査段階で「自白」を得ようとされるか,が問題となるのですが,それは上でご説明しました,「供述の信用性は客観的な証拠に合致しているか,もしくは反していないかによる」ことに通じるのです。



裁判の時点で被告人が無罪を主張した場合,捜査段階で「自白をした」,という「客観的な証拠」があると,その「無罪だ」という主張の信用性が否定される方向に向かいます(「自己矛盾供述」と申します)。逆に,裁判で被告人が犯行を自認した場合,捜査段階で「自白をした」,という「客観的な証拠」があると,その捜査段階における「自白」が裁判における自認を支える客観的な証拠となるからです







しかしながら,その「客観的な証拠」だという「捜査段階で自白したではないか」と扱われている「自白」そのものが,実は危うい主観的な供述であることを,読者の皆さんはもうお気づきだと思います。



捜査段階で「自白」がされ,その後有罪であることで確定した事件について再審が行われ,再審の結果その捜査段階の「自白」が信用に値しないとの評価が行われて無罪判決が出されていることは,「人の主観的な話」がいかにもろいものなのかを私たちに教えてくれていると思います。



「人の主観」が危うい存在であること,それに対する評価には慎重にも慎重でなければならないことは,「人は完全ではない」こと,そしてその悲しい事実を前提に構築されている法律制度の姿そのものが投影されているように思えるのです。