グーグルで行われているストリートビューサービスは,多くの方が利用されていると思いますが,そのストリートビューで自宅の画像が世界中に公開されることになった,として,プラしバシー侵害を理由とした訴訟が提起されていました。



注目されたその判決が出されたとの報道を目にしましたので,御紹介いたします(四国新聞2012年7月14日付記事より)。



「プライバシー侵害認めず 『ストリートビュー』画像 福岡高裁判決



ネット検索大手グーグルの『ストリートビュー』で,下着などの洗濯物を撮影,公開されプライバシーを侵害されたとして,福岡市の女性がグーグルの日本法人に60万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で,福岡高裁は7月13日,請求を退けた一審福岡地裁判決を支持,女性の控訴を棄却した。



判決理由で木村元昭裁判長は『撮影により私生活の平穏が侵害されたとは言えず,画像公開もプライバシー侵害とは認められない』と述べた。



女性は強迫性障害と知的障害があり『ベランダに干していた下着などを撮影され,精神的苦痛を受けて障害が悪化した』と主張していた。



判決は『私的事項が撮影され,画像として残ることで精神的苦痛を受けることもあり得る』と指摘。顔や姿だけでなく私的事項の撮影もプライバシーを侵害する行為となる可能性があると判断した。



ただ,女性のベランダの画像については『手すりに布のようなものが掛けてあることは分かるが,下着が干してあるとまでは分からない』とした。女性は上告を検討するとしている。」







高裁判決は,ストリートビューを全く自由な存在としたのではなく,それにより個人の顔や姿,さらには私的事項が撮影されることによって,プライバシー侵害となる可能性を認めたのです。ただ,当該事案における具体的な画像としては,プライバシー侵害ではない,と判断したのです。



高裁の判決は,ストリートビューとプライバシーとの両利益保護の要請を調和させたものであり,妥当なものではないか,と思っています。ただ,次に私達が社会として考えないといけないことは,それではストリートビューによりプライバシー侵害が行われる場合を念頭において,法規制を行えるのか,という問題です。



実は,この問題が題材とされたのが,昨年2011年度の司法試験の論文式試験における憲法でした。現在既に存在している法について問うのではなく,将来想定される法について,どのような判断を行うか,という点を通して,司法権の担い手としての才能を見ようとしたものです。その意味でとても司法試験らしい問題だと思います。次の問題です。



新司法試験平成23年度論文式試験公法系第1問(憲法)



問題の内容を大きく申しますと,ストリートビューによってプライバシーが侵害されないようにとの法律が制定され,その法律に違反している,との警告がされたのに,そのサービスを運営会社が停めなかったため,サービスが強制的に停止させられた,その措置は憲法に違反しないか,というものです。



実は私は,このストリートビューに関する司法試験の問題を,担当している岡山大学法科大学院の講義で題材として用いたことがあります。



この問題の考え方としては大きく申すと2つの方向性があると思います。1つは,ストリートビューをあくまでも憲法21条の保障する表現の自由の発現としてとらえる考え方です。



表現の自由は,憲法が保障する人権の中でも特に司法権により厳格な司法審査,憲法審査が行われなければならない,と一般的には言われています。なぜならば,表現の自由は通常,私達の社会における民主制のプロセスそのものを支える自由であって,それが侵害されている場合には,国会が自ら法改正を行えない状態になっている,と考えることができるからです。



この立場からすると,ストリートビューへの法規制は,政治的なスピーチと同様に,表現の自由として厳格な司法審査,憲法審査が必要である,ということになります。



ところが,この問題は,全く逆の立場から考えることが可能なのです。ストリートビュー・サービスを表現の自由の発現として考えるのではなく,経済活動の自由として考えるのです。



といいますと,この私のブログを書いておりますアメーバブログもそうですが,多くの方がインターネット上の特定のサービスを利用することで,そこに企業が広告を出す経済的空間が生じるわけです。



インターネットサービス会社は,基本的にはネットサービスを無料で利用させて,そこに多くの方がアクセスするようになり,その上でその空間に企業が広告を出す,その広告収入で経営を行っているわけです。



とすると,ストリートビュー・サービスも,決して表現の自由ではなく,むしろグーグルによる経済活動・経営活動の一環,と考えることができるのですね。



さらに申すと,ストリートビューによって伝わる画像は,決して政治的スピーチのような政治プロセスに関連を有する内容を持つものではなく,「画像」そのものなのです。とすると,その意味においても,「政治的プロセスの重要性」から表現の自由を厚く保護しよう,厳格な司法審査・憲法審査を行おう,という必要性は薄くなるように思えますね。



そのように考えると,ストリートビューへの規制立法の憲法適合性を,経済的自由の1つとして,緩やかに判断すべきである,と主張することになるのです。






この問題は,未だ法律そのものが存在しない,いわば将来の社会のあるべき姿を予言する能力を見ようとしているもの,と言うことができると思います。



私自身の考えを申しますと,なるほとストリートビューにより流れる画像は,政治的なスピーチとは異なり,「画像」であり「絵」そのものです。これはいわば事実としての存在であって,政治的言論とは異なります。



ただ,ストリートビュー・サービスにより,世界中の人が受けることができるメリットは,いつでも世界中のどの街の様子を見て,あたかもその街を訪れているような経験ができる,というものです。



それはあたかも,外国旅行に行く自由と同様のものと考えることができると思います。そして実は,パスポート発給拒否が行われた際に行政庁がその理由を十分に書かなかったことの憲法適合性が争われた事件において最高裁昭和60年1月22日判決は,その処分を違法としたのですが,



その判決において伊藤正巳裁判官は,個別意見において「外国旅行の自由は,かつては身分や土地に縛られていた人が自由に行き来ができるようになったという意味において移転の自由,経済的自由の側面を有するとともに,今日においては,外国に行くことで他の人々の意見や情報などを通じて人格の形成に役立つという精神的自由の側面をも有するのであるから,精神的自由と同様に,厳格な司法審査・憲法審査が必要だというべきである。」としたのです。



その伊藤正巳裁判官の考えを,ストリートビューにより人々が得られる効果に投影させると,やはりその規制立法の司法審査・憲法審査は,表現の自由と同様に,厳格に行われるべきである,とされるように思います。







このような考えの下で,岡山大学法科大学院の講義を行ったのですが,実はその講義の際に,受講生の方が,ある意見を言われたのです。



それは,「ストリートビューの画像は,確かに政治的スピーチのように政治的な内容を含むものではない。しかしながら,画像とはいえ,その『画像』『絵』そのものに『思想』が現れているのであるから,その意味でストリートビューについても憲法の保障する表現の自由の発現として,厳格な司法審査・憲法審査が行われるべきである。」という意見だったのです。



仮に単なる白い岩の写真であったとしても,もしくは白い壁の写真であっても,そこには写した者の思想やメッセージが含まれているではないか,その思想やメッセージを社会として大切にするべきである,というお考えですね。



私は,このような御意見が出ることを予想していませんでした。でも現在においては,このとても美しい,芸術的なお考えを支持したい,と考えています。