民法に,とても興味深い規定があります。民法の724条の後段です。



民法724条はまず前段において,次のように規定しています。



「不法行為による損害賠償の請求権は,被害者又はその法定代理人が損害及び害者を知った時から3年行使しないときは,時効によって消滅する。」



そして続いて,後段では次のように規定しているのです。



「不法行為の時から20年を経過したときも,同様とする。」



民法724条の前段は,交通事故のような,契約関係にない当事者が,相手方当事者に対して不法行為による損害賠償を請求する場合には,損害が生じたことと,その相手方が誰かを知った時から3年で時効になる,と規定しています。つまり不法行為についての時効の規定です。条文では「請求権は,・・消滅する。」と規定されています。



それに対して後段は,時効ではなく,除斥期間と言われています。時効でしたら,権利者が請求をすることによって時効期間が進行することを中断させることができるのですが,除斥期間は権利そのものの存在期間であって,中断などは認められず,20年の経過によって権利が消滅する,「被害者側の認識のいかんを問わず一定の時の経過によって法律関係を確定させるため請求権の存続期間を画一的に定めたもの」と解釈するのが判例の立場です(最高裁平成1年12月21日判決)。



つまり最高裁の立場によると,民法724条前段が「請求権は,・・消滅する。」と規定し,後段が「同様とする。」と規定していることからすると,不法行為の被害者は,不法行為の被害に遭った時から,20年経過することで,事案のいかんを問わず,また経緯のいかんを問わず,もう損害賠償請求ができなくなる,ということになりそうですね。



ちなみに上掲の最高裁平成1年12月21日判決は,戦時中の不発弾の処理に当たり,警察官の過失で消防団員が負傷した事件で,事件後28年余経過して,被害者が国家賠償法1条による国家賠償を請求したものです。最高裁はその訴えを「権利が消滅している」という理由で認めませんでした。






とすると,民法724条が「請求権は,・・消滅する」としていることからすると,不法行為から20年経過すると「権利」そのものが消滅するはずですので,もはや不法行為の被害者は権利救済されない,という結論になりそうなのですが,実はここに面白い判例群があるのです。



まず最高裁平成10年6月12日判決(東京予防接種禍訴訟上告審判決)は,1952年の予防接種で被害を受けた男性が22年経過後の1974年に提訴した事案で,被害者は20年の経過した段階では心神喪失の状態で訴訟を起こせる状態ではなかったとして,時間の経過だけで権利を失うのはいちじるしく正義・公平の理念に反する,としてその権利行使を認めました。



民法724条は例外なく20年の経過によって「権利」が消滅する,と規定しているのに,20年経過段階で被害者が心神喪失にあった場合には,20年が経過しても「権利」は消滅していない,と判示したのです。解釈により被害者の救済を図った判例です。



もう1つは,最高裁平成21年4月28日判決です。殺人事件の加害者が死体を隠匿したため,被害者の相続人が死亡の事実を知ることができず,相続人が確定しないまま殺人の時から20年が経過した,という事件が起きました。



民法724条の規定からしますと,20年の経過によって「請求権は,・・消滅する」わけですから,この事件において相続人は,訴訟を起こしても除斥期間によって「権利」が消滅している,とされてもおかしくなかったわけです。



ところが最高裁は,そのような経緯があり,相続人が確定した時から6ヶ月以内に権利が行使されたなど特段の事情があるときは,民法724条後段の規定にかかわらず,不法行為に基づく損害賠償請求権は消滅しない,としたのです。



20年の経過により「権利」が消滅したはずなのに,「権利」の行使が認められたわけです。この判例も法解釈により被害者の救済を図ったと言えるものです。






この2つの判例は,民法には時効の停止という規定がありまして,その規定の趣旨を勘案する形で,被害者の救済を図ったものでした(「時効」を停止する規定ですので,権利の存続期間そのものである除斥期間には,本来適用されないはずの規定だったのです)。20年の経過を理由として権利が消滅すると形式的に判断してしまうには,あまりに酷な事案だったこと,そしてその結果は許されるべきではない,という社会の思いが,いわば1つの社会的因子となり,最高裁の解釈を促したのだと思います。



でも法律で「権利がない」とされているのに,「権利がある」との判決が出されることは,とても興味深いと思われませんでしょうか。それはやはり,法とは社会において正義を実現するために創造された存在であり,法の形式的な適用の結果,そしてそれによる裁判の結果が社会の正義感に著しく反するようなものであるならば,それはもはや,私達が法を作った理由そのものに反するからだと思うのです。