今日は,少し専門的なお話をさせていただきます。



人権の概念は,歴史的に変遷をしてきました。



まず人権は,1776年のアメリカ独立宣言や,1789年のフランス人権宣言において高らかに謳われました。思想良心の自由,信教の自由,表現の自由のような自由権がそのような自由権ですね。



これらの人権はどのような性質を有するか,と申しますと,人が,人として生まれると当然に有する権利であるということです。それは,国によって与えられたのではなく,憲法によって初めて与えられたのではなく,国や憲法が存在する前の段階から,人として当然に有していた権利です。



ですので,この古典的な一段階の人権が謳われていた段階については,「夜警国家」という言葉が使われていました。国家は,人が国家が成立する以前から有していた人権を守るために,夜パトロールさえしてくれればいい,という言葉ですね。この第一段階の人権は,自由権規定,と言われますが,特に国家からの人権侵害を憲法によって防ぐことが主眼となりますので,一言で申しますと「国家からの自由」と表されております。



それに対して,次の段階の人権の代表例は選挙権です。選挙権は国家があることを前提として,国会議員や地方議会議員を選ぶ権利ですね。とすると,それは国家という存在がなくても人として有する思想の自由や信教の自由とは少し違う人権であるように思えます。



例えば,思想の自由は人であれば例えば小さい子供でも保障されているものですが,選挙権は成年者のみ認められて,未成年者は選挙権が認められていませんね。また,憲法で選挙権が保障されている成年者とは誰を意味するのか,被選挙権を有するのは誰か,という権利の詳細は,憲法自身ではなく,法律で定められます。



このように選挙権は,思想の自由などの古典的な第一段階の人権とは異なり,国家の存在を前提として,初めて出てくる人権です。この選挙権のような,国家の存在を前提として,その国家の政治に参加する権利を「国家への自由」といいます。



さらに,人権の歴史的な変化はもう一段階あります。それが生存権のような社会権といわれる人権です。例えば憲法25条は,人が人間らしく生存していく権利である生存権を保障しています。生活保護のように,いろいろな事情で働くことができずに生活費を受給している人がいます。



それは憲法25条の生存権に基づく権利ではあるのですが,では生活保護法のような具体的な立法がされていない場合にでも,当然に役所に行って生活保護費を受けられるのか,というとそうではありません。やはり国会が制定した法律に,どのような人,どのような条件を満たす人に生活保護を受給させるのかが規定されて,その要件を満たす人が生活保護費をもらうことができるのです。



とすると,この第三段階の生存権のような人権は,第一段階の思想の自由,信教の自由,表現の自由などの国家を前提としない人権とはかなり異なる性格の人権ですね。どこが異なるかと申しますと,それは国家が存在することを前提として,しかも国会による法律の制定を待って,初めて具体的に権利を主張することができるということです。この第三段階の人権を「国家による自由」といいます。







さて,今日,ここでお話するのは,経済的自由という人権についてです。経済的自由の代表例は,職業選択の自由,そして経営の自由です,まさに経済活動を自由に行える自由としての人権です。



そして,上の人権概念3つの段階において,経済的自由は第一段階に属する自由である,と考えるのが憲法学の通説です。つまり憲法学の通説では,経済的自由は,国家が存在する前から,人であることから当然に認められる人権である,ということになります。







以上の内容は,現在書店で販売されているどの憲法の教科書にも書かれているような内容でありまして,法律を学んだ方からすれば,当然のことだ,と言われてしまうところです。



ところが,ここで面白い立場があるのです。私がその立場を知ったのは,大学院の入学試験の時でした。



私は大学院で国際法を専攻する予定だったのですが,入学試験には憲法の試験も課されました。そしてその憲法の問題として,次のものが出題されたのです。



「経済的自由は『国家からの自由』(注:上記第一段階における人権)に属する人権であるというのが憲法学会での通説である。それに対して経済学における通説では,経済的自由とは国会において制定された独占禁止法によって初めて実現できる人権であり,その意味で経済的自由は『国家による自由』(注:上記第三段階における人権)である,とされている。この経済学における通説の立場について論ぜよ。」







憲法学における通説は,経済的自由は国家からの自由(第一段階の自由)であり,それが自由であることから生ずる弊害を防ぐために制定されたのが,独占禁止法である,と考えます。



これに対して経済学における通説は,逆に考えるのです。国会が独占禁止法という法律を作り,独占等が禁止されたことにより初めて享受できるのが経済的自由なのだ,という考え方です。だから経済学における通説は,経済的自由は国家による自由(第三段階の自由)である,と考えるのです。



この経済学における通説は,憲法を一通り学んだ者からすると,「えっ」という驚きを感じるような立場です。職業選択の自由や経営の自由が生存権と同じなはずがない,と感じるのが,法律家としては通常だと思います。



ところが,よくよく考えてみますと,経済学の通説の立場は,現在の判例ととても親和的であることに気付くのです。



例えば,経済的自由については,思想良心の自由や信教の自由,さらには表現の自由という第一段階における人権とは異なり,「積極的規制」を加えることが可能である,というのが最高裁の立場です。最高裁の判示を見てみましょう。



「個人の経済的活動に対しては,社会公共の安全と秩序を維持するという消極的時目的のために必要で合理的な限度でその規制が許されるのみならず,経済的劣位に経つ者を保護するための積極的な社会経済政策の実施の一環として,これに一定の合理的規制を講ずることができ,立法府がその裁量権を逸脱し,当該法的規制措置が著しく不合理であることの明白である場合に限って,これを違憲とすることができる。」(最高裁大法廷昭和47年11月22日判決)。



この最高裁大法廷判決の立場によれば,小売業をされている方々を保護するために,大規模スーパー郊外店への営業規制を行うことも,その目的に合理性が認められ,その規制手段が立法府が裁量権を逸脱したようなよほどの場合でなければ,認められる,ということになります。



でも,そのような積極的規制は第一段階の人権である思想良心の自由や信教の自由,そして表現の自由に対しては課すことができない,と考えられているのです。



経済的自由が本当に第一段階に属する人権であるとすれば,なぜそのような特別な規制が許されるのでしょうか。むしろ,経営の自由をはじめとする経済的自由は生存権などと同じ第三段階に属する人権であり,国会が独占禁止法という法律を制定することによって,初めて実現できる人権なのであるから,その反対に国会によって経済的活動に対して法律で積極的規制を課すことも当然にできるのだ,と考えると,その説明は容易になります。



もう一つ申しますと,憲法学の通説では,上述しましたように経済的自由権は第一段階の人権であるけれども,外国人の方々に対しては日本人保護の要請から特別な規制を行うことも許される,と解釈されています。



でも,経済的自由が本当に第一段階に属する人権であるとすれば,それは国家により与えられたものではなく,人であることから当然に有する人権であるはずですから,外国人であることを理由に規制を行える,というのはおかしいのではないでしょうか。



むしろ,経済的自由は第一段階に属する人権ではなく,国家が独占禁止法という法律を制定することによって初めて実現された人権なのだから,その反対に国会によって外国人の方々に対して法律で規制を行うことも許されるとされているのだ,と考えると,やはりその説明は容易になりますね。







入学試験の後で見つけたのですが,憲法学を専門とされる樋口陽一先生がこの問題を著書で紹介されています(樋口陽一『もういちど憲法を読む』(岩波書店,1992年)57頁)。



「同じ自由といっても,経済的自由と精神的自由,もっと平たく言えばお金と心の自由,それらの間の緊張というものが登場した場合に,どういうふうにケリをつける論理を考えるのか。



あるいは,『自由』という場合に,国家権力によって邪魔をされない生き方をする,これは心の面でもお金の面でもということになりますが,国家権力からの自由というものをわれわれはまず考えます。国家が何もしないことによって,国家からの自由は確保されるわけです。



しかし,そこで本当の自由競争が行われるかというと,必ずしもそうとは限られない。経済の面で言いますと,独占禁止法(独禁法)というものがあります。これは,放っておくと独占がますます膨らんでいく,だから独禁法という法律の力を借りて,あるいはそれを運用するお役所である公正取引委員会というお目付け役が割り込んで入ってくることによって,自由な競争ができる条件をつくろうというのです。



ですからこれは,国家からの自由という点だけから言うと,そんなことをしてもらっては困るという議論も成り立ちうるような話なのです。」







この経済的自由と独占禁止法の試験問題を見たときはとても驚いたのですが,後から考えてみますと経済学者の方々は法律家とは異なる立場から,この経済的自由の問題に光を当てられたわけです。



そしてその主張の内容を注意深く考えてみますと,法律家としては当然であり疑うこともないような分野が,とても深い問題を秘めていることに気付かされるのです。



社会に存在しているさまざまな意見を聞くこと,その多様な意見が照らそうとしている側面についてよく考えること。入学試験ではありましたが,そんな大切なことを学ぶ機会となったのです。