哲学者のソクラテスは,裁判にかけられ死刑判決を受けた時,「悪法も法である」と言った,と伝えられています。法律として存在している以上,それには従わなければならないのだ,という意味ですね。



仮にソクラテスが言った言葉の意味が,「立法機関により法律として制定されたものはすべて従わなければならない」という意味であるならば,この「悪法も法である」という言葉は,現在の日本では否定されることになります。



日本では,憲法が最高法規として定められています。そしてその憲法により,基本的人権が保障されているのです。



憲法が人権を保障しているという意味はどこに現れるか,と申しますと,例えば国会が行った立法により定立された法律の内容が基本的人権を侵害するものであり,憲法に違反する,と裁判所が判断した場合には,その法律の効力は否定されることになります。つまり現在の日本では「悪法は法ではない」ということになるのです。



以前の記事でもお話しましたね。基本的人権が保障されるということ,国民の多数意見の発現であるはずの国会が制定した法律であっても,その基本的人権を侵害することはできない,ということは,私達の社会では多数決では決めることができないことがある,ということを意味します。



「そのようなことを多数決で決めたとして私達少数派にも強制するのであれば,私達はこの日本の社会から出て行きます」という事態が生じないようにするために,私達は日本の社会において最も効力が強い法として憲法を定めたのですね。







実はこの「悪法は法か」という点につき,とても深い問題提起をしたドイツの裁判があります。「壁の射手」事件と言われる裁判です。



旧東ドイツでは,ベルリンの壁を越えて西ドイツに逃亡しようとする者に対して,国境警備兵が銃器を使用し,警告に従わない場合は射殺することが法律上正当化されていました。



ところが,ドイツ統一後,旧東ドイツ時代にその法律に従って越境者を射殺した4人の国境警備兵が,旧東ドイツ刑法上の故殺罪という殺人罪の類型に該当するとして起訴されたのです。



この4人の国境警備兵の弁護人は,射殺行為が行われた行為時には旧東ドイツの国内法上適法とされていたことを,この4人はしたにすぎないのだ,行為時に適法であった行為を事後的に犯罪として処罰することは,ドイツ憲法が規定する遡及処罰禁止の原則に抵触する,と主張しました。



でも,ドイツ連邦憲法裁判所は,1996年の判決で,体制の異なる国家の不法な法が問題になっている本件では,遡及処罰禁止の原則の適用が除外される,として,4人を有罪としたのです。



4人の国境警備兵の立場からすると,自分たちは旧東ドイツの国内法に従っただけである,と主張するわけですが,ドイツ連邦憲法裁判所はその主張を認めませんでした。この裁判所が採った有罪という結論を導くには,色々な法律構成が考えられるのですが,私としましては,旧東ドイツの立法機関が制定した法律をも上回る効力を有する自然法が存在していたのだ,それは国家という存在を超越した存在であり,その自然法が守ろうとしているのが基本的人権なのだ,



旧東ドイツの国内法は,元々この自然法に反する存在として,形式的には法律として存在していたとしても,実質的にはその効力を失っていたのだ,と考えるべきなのではないかな,と思っています。






ソクラテスの時代から,「どのような人間ならこの世の統治者にふさわしいか」を哲学的に考えてきた人類ですが,長い年月を経て,この世には完全な人間は存在しないのだ,というとても悲しい現実に行き着いたのです。その不完全な人間が,せめて少数者の方々の基本的人権が多数派によって侵害されることがないようにと編み出した知恵が憲法なのですね。



「悪法も法である」として死刑判決に従ったソクラテスは,天国でその後の人類の歩みをどう見ていたのでしょうか。そして人類が編み出した憲法という知恵を,どう評価しているのでしょうか。



可能なら直接お話を伺ってみたいです。まさか「悪法は法ではなかったのか。しまった。」とは言われないと思いますが。