『デジタル時代の著作権』(ちくま新書,2010年)は,弁護士の野口祐子さんの著書です。



日本の著作権法は,旧著作権法が明治32年(1899年)に,そしてそれを改正した現在の著作権法が昭和45年(1970年)に制定されました。



インターネットやメールなどのデジタル的な表現方法が趨勢の現在,そのデジタル機器を用いた表現,著作物はこれまでにない増加を遂げておりますし(以前は個人が自らの考えを一般に表現することは,新聞の投稿欄などを用いるしかなかったのですが,現在はブログやフェイスブックがありますね。



また政治的な表現も,以前はビラを配るなどに頼らざるをえなかったのですが,現在ではメーリングリストがあります。),そのデジタル時代の表現物において,他者の著作物を用いる場合,その著作者保護の要請と,表現者の自由保護の要請は,デジタル機器の存在していなかった時代と比べて,とても大きな問題となっています。さらにデジタル時代においては,それが存在しなかった時代よりも,権利侵害の影響も大きいものとなっています。



『デジタル時代の著作権』は,デジタル的な表現方法のない時代に制定された著作権法は,現在のデジタル時代においてどう動かされるべきか,私たちはそれをどう動かしていくべきかについて,書かれた著書なのです。







この本では,ハーヴァード・ロー・スクールのウィリアム・フィッシャー教授がデジタル時代の著作権制度,著作者保護制度として提案された,著作物利用の対価を「税金制(一律定額制)」にする提案をされた話が紹介されています。



「税金制」とは,ネットにつながっている人はすべて,1人1か月,一定の金額を著作権使用料として支払い,その代わり,コンテンツは許諾も何も必要なく使いたい放題にする,というルールです。



そうやって広く集めたお金を,誰の作品が全部で何回使われたかで頭割りにして,権利者全員に配ったらどうか,というアイディアなのです。そうすれば,これまでの著作権使用料の支払いの場合のように,その利用ごとに権利者に許諾を取るというコスト(それは社会的なコストでもあります)は取り払われるので,著作物の利用は進み,クリエイター側もリターンを得ることができる,とされています。



フィッシャー教授が,デジタル時代であるからこそ,著作物の利用料を支払うのではなく,あえて著作物利用に対する「税金」を払う,という提言をされているのは,健康保険が健康という万人に共通の福祉のために,その実現の費用を社会全体で負担して,社会の構成員全員の健康を確保する仕組みであることに対応したものです。同教授のアイディアは,著作物という社会文化を,健康と同じように社会全体で支えようというものなのですね。



同じような提言としては,小川明子『文化のための追求権―日本人の知らない著作権』(集英社新書,2011年)でも行われています。現在の著作権法では芸術家の方々の保護が十分ではないとの考えの下,絵などが購入されていく度に,その購入者が著作者に一定の報酬を支払う,という制度として,追求権の提言がされているのです。






『デジタル時代の著作権』の野口さんは,これらのデジタル時代の著作権問題は結局,情報は本来どこまで自由であるべきなのか,また文化の発展はどうやって支えるべきなのか,ということであり,人間は何事も「学ぶ」こと,つまり「真似ぶ」ことから始まるのであって,ニュートンがかつて引用したように,「われわれは巨人の肩に乗った小人のようなものだ。当の巨人よりも遠くを見わたせるのは,われわれの目がいいからでも,体が大きいからでもない。大きな体の上に乗っているからである」という視点を忘れてはならない,と書かれています。



デジタル時代にふさわしい,より自由な著作物の利用と,その著作物の社会的支援を両立させようという野口さんらの提言は,とても刺激的なものです。私もこのブログ記事で以前に「シェイクスピアと著作権」で当時の考えをまとめてありますので,お時間のある時にでもお読みください。



http://ameblo.jp/spacelaw/entry-10641681456.html







著作物,芸術作品といいますと,決して現在のデジタル時代だけでなく,それこそ太古の時代から人類は芸術作品を作り続けてきましたね。私が以前,フランスのルーブル美術館に参った際,同行してくださった現地の方が,まず「モナリザ」ではなく,紀元前に初めて人が作ったと言われている人の顔の形をした像のところに連れて行ってくださり,とても感激したことを覚えています。



日本でも,昨年末から「源氏物語 千年の謎」の映画が公開されていますね。私も映画を拝見しましたが,著者である紫式部の人生と,その著作物の主人公である光源氏の人生とが重なり合い,とても美しい映像で描かれていました。



平安時代(1001年頃に書かれたと言われているそうです)に生み出された「源氏物語」ですが,デジタル時代の現在に生きる私たちの心も掴んで離さない名作ですね。







実は同じ知的財産権の著作権と特許権ですが,法律上の解釈では異なる点があります。それは創作性要件と言われるものです(鳥並良他『著作権法入門』(有斐閣,2009年)24頁以下)。



特許権の保護対象は技術でありまして,技術は日々進歩・発展していくものですから,従来の技術と大差ない技術は保護の要請が低い,とされています。そこで特許権法上,新規性,進歩性を有しない技術は保護が否定される,と解釈されています。



それに対して著作権の保護対象は技術ではなく,絵画などの文化的な表現物です。文化の世界は,多様性の世界でありまして,技術のように進歩,発展していく,というものではありません。例えば,古典文学と現代文学とを比較すると,現代文学が必ず優れているというわけでもありません。



むしろ著作権法の目的は,多様な著作物,表現物が存在すること自体にあります。そのため著作権法としては,著作物の新規性や進歩性を問わず,広く著作物を保護する立場なのです。



上掲の『著作権法入門』では,その説明として「表現物は,技術のように,客観的な価値評価の基準が存在しないため,著作権法において,新規性や進歩性を著作物の保護要件とすると,裁判所による著作物の判断が恣意的なものとなり,法的安定性が害されることになる(例えば,現代美術を嫌悪する裁判官は,現代美術に独創性がないとして創造性を否定する可能性もある)。」との例えが用いられています。面白いですね。



今から1000年以上前に紫式部によって書かれた『源氏物語』も,デジタル時代の現代に生み出される著作物も,言葉に込められた思いは変わらない,ということですね。