東日本大震災により被害を受けられた皆様に,心からお見舞いを申し上げます。







小田滋さんは,日本を代表する国際法学者です。1976年2月から,2003年2月まで,3期27年間にわたり,オランダのハーグにある国際司法裁判所の判事を務められました。国際司法裁判所の判事に就任される前までは,東北大学で国際法の研究をされていた方です。




国際司法裁判所は,例えばアメリカと日本,オランダとドイツのように,国と国との間の紛争を裁く裁判所です。私も日弁連の仕事でオランダのハーグに行った時,国際司法裁判所に参りました。




国際司法裁判所は,「国際社会に法の支配を実現する。力が支配する世界ではなく,客観的な法と透明な司法プロセスにより世界の紛争が解決される世界を目指そう。」という理念の下,設立されました。実際に建物の前に立ち,とても感激したことを覚えています。



弁護士作花知志のブログ




小田滋さんは,国際法の中の海洋法という分野がご専門です。東北大学での研究者の時代に,当時の西ドイツの依頼を受け,同国の補佐人として,この国際司法裁判所の法廷で弁論を行い,同国を勝訴に導きました。それは,大陸棚の境界画定に関する北海大陸棚事件(1969年判決)という事件です。



同事件は,国際条約の条項が,その条約の締約国ではない国にも拘束力を有するか,という,いわゆる国際慣習法の成立の有無が問題とされたものです。大陸棚の問題だけでなく,国際慣習法の問題に関しても,現在でも必ず引用される重要な判決です。







そのような小田滋さんが,国際司法裁判所の判事として関わられた事件で,私個人として最も印象的なものの一つが,核兵器使用の合法性事件です(1996年)。



1990年代のはじめに,核兵器の廃絶を主張する市民運動が途上国を動かし,世界保健機関(WHO)と国連総会が,1993年と1994年のそれぞれの決議で,核兵器使用の合法性について,国際司法裁判所の勧告的意見(判決ではなく,裁判所の法的な意見を求めるもの)を求めました。



審理では,国際司法裁判所の要請により,日本など30カ国が書面でその意見を述べ,さらに21カ国の代表が,実際の法廷で意見を述べました。日本も初めて,国際司法裁判所の法廷で意見を述べたのです。また,当時の広島市長と長崎市長が証人として法廷で証言をされました。両市長の証言は,原子爆弾の悲惨さを語り,傍聴席にあふれた人々に大きな感銘を与えた,とされています。



審理の結果,1996年7月に出された国際司法裁判所の勧告的意見は,核兵器の使用は一般的には国際法の規則に反するけれども,国家の存亡にかかわる自衛の極限状態においては,この使用が合法か違法かを確定的に判断することができない,というものでした。



15名の裁判官の多数決で国際司法裁判所の勧告的意見は決まるのですが,この時の裁判官の票決は,まず14名の裁判官が7対7となり,最終的には裁判所所長のキャスティングヴォートにより,上記勧告的意見となったのです。



その裁判所としての多数意見に反対する立場の裁判官には,2つの立場がありました。



まず Weeramantry 判事のように,核兵器の使用を完全に違法であるとする立場です(同判事は,120頁を超える反対意見を書かれました)。



もう1つの立場が小田滋判事の立場でした。それは,このような問題に国際司法裁判所が意見を与えるべきではない,という立場だったのです。このような一般的性質の法律問題に対して,国際司法裁判所が回答を与えることは,司法的判断適合性と訴訟経済の観点から,国際司法裁判所の司法機関としての機能を阻害する,という趣旨でした。



世界で唯一の被爆国である日本の,15名の国際司法裁判所の判事の中で当時唯一の日本人判事だった小田判事の意見は,当然評議の場でも注目されていたそうです。



日本から多くの関係者や報道関係者も裁判に駆けつけ,当然日本人である小田判事は,核兵器の使用は違法であるという立場に立つのだろう,と思う人が多かったようです。



でも,小田判事はその立場を採らなかったのです。評議の際の小田判事の心境が,近著に記載されていますので,引用させていただきます(小田滋『国際法と共に歩んだ六〇年』(東信堂,2009年)349頁)。



「この事件の最終段階での合議の際に私は悩み通しでした。



私としてはもちろん核兵器使用が合法などと言うのではありません。



しかし,こうした私の立場が日本では判ってもらえずに非難の矢面に立たされるだろうということは予想できました。



表決の瞬間まで迷いに迷い抜いたのです。



裁判官会議での上席裁判官としての私のヴォートの順番はほとんど最後ですが,しばらく時をおいてやっと私が『ノー』と言った時に各裁判官の間でどよめきが起こりました。



私が『イエス』を言えば八対六で可否同数は避けられたのです。



果たしてこの勧告的意見の言い渡しの翌日,日本の新聞の多くは,『被爆国,日本の判事こともあろうものが』という調子で報じましたが,いくらかの新聞が私の立場に理解を示しました。」







小田判事は,裁判官としての任期中ずっと,国際司法裁判所の管轄権について,厳格な立場を貫かれていました。国際司法裁判所の司法機関としての機能の確保がその理由でした。この事件における小田判事の立場も,それを貫くものでした。



世界唯一の被爆国である日本人の裁判官が,自分が「核兵器の使用は違法である」という立場さえ採れば,それが裁判所の多数意見として成立する状態で,それでも司法機関としての機能を重視して,自らの立場を貫かれたのです。



このブログでは,何度か裁判官の独立の問題,裁判官の良心の問題を取り上げてきました。



司法機関とは,客観的に存在している法に,意味を与えて動かしていく存在です。そして,その司法判断が社会の多数意見に影響されるのではない,まさに客観的な意味を法に与えるのでなければ,司法権に独立が与えられ,裁判官が自己の良心にのみ従って判断することを保障した趣旨が失われます。



つまり,司法権は,そして裁判官は,この日本の社会から,さらには国際社会からも独立した存在としてその判断を行うだ,とも言うことができるでしょう。



小田判事の立場は,私達に司法の役割,そして裁判官の役割を,改めて教えてくださったように思うのです。








なお,小田滋さんは,現在東京で弁護士をされていらっしゃいます。



小田滋さんが学者として,そして国際司法裁判所の判事として国際法に関わられた歴史については,小田滋『国際司法裁判所』(日本評論社,増補版,2011年)や,上掲しました『国際法と共に歩んだ六○年』(東信堂,2009年)などで読むことができます。



私自身,いつか小田滋さんと直接お会いして,国際法のお話や,現在の弁護士としてのご活動のお話を伺う機会があれば,こんなにも嬉しいことはない,と思っているのです。