藤川義人『よくわかる知的財産権』(日本実業出版社,2002年)16頁には,「権利」というものを考える点で,とても興味深い話が取り上げられています。エイズ治療薬と特許権の保護に関する話です。



国連の推計では,世界のエイズ患者は3000万人以上で,特にサハラ以南のアフリカにおける患者数は,世界全体の3分の2を占めているそうです。



このような状況下,南アフリカでは,1997年に,欧米の製薬会社が特許権をもつエイズ治療薬のコピー版を製造・輸入することを認める法律を制定しました。



そのような立法がされたのは,欧米の製薬会社のエイズ治療薬が高額なため,それを必要とする南アフリカのエイズ患者には手が届かない,ということを理由とするものです。



その立法を受けて,2001年2月には,インドの製薬会社がイギリスの製薬会社などのエイズ治療薬の複製品を南アフリカに輸出すると発表しました。



これに対して,欧米の製薬会社など39社は,2001年3月,南アフリカの法律が無効であるとして輸出差止めを求める訴訟を提起しました。



欧米の製薬会社としては,模倣品が許されれば莫大な費用がかかる新薬の開発ができなくなるなどの言い分がありました。でも,国際世論の影響もあり,結局は訴えを取り下げざるをえませんでした。



社会において特許権という「権利」を有しているのですから,その権利の行使として,治療薬のコピー版の輸出差止めを求めることは,当然であるように思えます。



しかしながら,エイズ患者の方々がどのように苦しんでいるのか,治療薬のコピー版があれば,どれだけの患者の方々の命を救うことができるのかなど,社会で現実に発生している悲劇を目の当たりにすると,その権利行使を当然に認めてよいのだろうか,と感じる方が多いのではないでしょうか。



では「権利」とは何か,「権利」が「権利」であることを支えていることは何か,と思わざるをえないのです。








実は,この権利であることを支えているものは何かについて,とても良い題材を与えてくれるのが,黙秘権の問題です。



興味深い裁判例がありますので,ご紹介しましょう。



札幌市の自宅から失踪した被害者A(当時小学4年生。男児。)のものと思われる遺体が,被害者Aとの最終接触者であった被告人Xの転居先家屋から失踪の4年後に発見された事件です。



被害者Aは,昭和59年1月10日午前9時35分頃,自宅にかかった電話を受けて急いで外出しました。



被害者Aの言動に不審なものを感じた母親の指示で兄がその後を追いかけたが途中で見失い,被害者Aはそのまま失踪しました。



その後昭和63年6月19日,北海道樺戸(かばと)郡のB方敷地内の納屋からビニール袋に入った子供の人骨片が発見されました(それは,B方の母屋が全焼したことによる捜査の際に発見されたものです。)。



被告人Xは,昭和61年にB方に転居し,Bと婚姻生活を送っていました。



その後の捜査で,被告人Xは,被害者A失踪当日,姉の自宅に宿泊した際に段ボール箱を持ち込み,物置に置き,その後自宅であったマンションに持ち運んだこと,昭和61年に婚姻のためにB方に転居した際にも,段ボール箱をタクシーに積み込んで運んできたこと,転居後しばらくして,B方敷地内で段ボール箱を燃やしていたことが判明しました。



被告人Xは平成10年11月に逮捕され,同年12月7日付で「昭和59年1月10日,当時の被告人X方において,被害者Aに対し,殺意をもって,不詳の方法により,同人を殺害した。」との公訴事実で起訴されました。



被告人Xは逮捕後,黙秘を貫き,捜査・公判を通じて一切説明も弁明もしませんでした。 



第一審札幌地裁平成13年5月30日判決は,人骨片と被害者Aとの同一性を肯定し,被告人Xは被害者Aの最終接触者であり,被害者Aの遺体が入れられていたものと合理的に推認できる段ボール箱を搬出,移動していたことなどから,被害者Aを電話で呼び出した者は被告人Xであると認定した上で,「被告人Xが何らかの行為により被害者Aを死亡させたものと認定できるけれども,



被害者Aの死因が特定できない上,被害者Aを死亡させる原因となった実行行為も認定できないこと,被告人Xに被害者Aの殺害の明確な動機が認められないこと等に照らすと,被告人Xが殺意をもって被害者Aを死亡させたと認定するには,なお合理的な疑いが残る。」として,被告人を無罪としました。



これに対して検察庁が控訴をしました。その控訴審で,検察官は「仮に被告人Xが被害者Aを殺さなかったのなら,殺人罪で起訴されたら,必死になって,自分は殺さなかったんだ,ということを弁明するはずではないか。つまり,殺人罪の起訴に対し,黙秘して何も話さないということは,被告人Xが殺したことを示しているのだ。」という主張をしたようです。



そのような検察官の主張に対し,第二審札幌高裁平成14年3月19日判決は,「被告人Xが事実について一切黙秘し何の説明も弁明もしないことにつき,検察官は他の証拠によって形成された心証を維持するだけでなく,それを一層強めるものとして用いようとするくだりがあり,これを素直に読む限り,被告人Xが黙秘し供述を拒否した態度をもって1個の状況証拠とし被告人Xの殺意を認定すべきであるとの趣旨が含まれているものと解さざるを得ず,そうだとすると,被告人Xの黙秘・供述拒否の態度をそのように1個の状況証拠として扱うことは,それはまさに被告人Xに黙秘権,供述拒否権が与えられている趣旨を実質的に没却することになり,到底受け入れることができない。」として,控訴を棄却し,被告人は無罪となったのです。



以前の記事でもお話しましたが,刑事訴訟法は,被告人が犯行を自白していることだけでは有罪判決を出してはいけないと規定しています(刑訴法319条2項)。それは逆に言うと,検察庁としては,被告人の自白を除いても有罪となるのに十分な証拠を集めないと,有罪判決を取ることができないことを意味します。



だから被告人には黙秘権が保障されているのでしょう。刑事訴訟で有罪判決を受けるには,被告人が有罪であることを示す客観的な証拠による証明がなければならないのですから,被告人自身が話す内容は関係がないのです(その意味で,被告人の自白には証拠能力を認めないような立法も考えられるように思えます)。






このように,日本の法律で厚く保護されている黙秘権ですが,実は,その発祥の地と言われるイギリスにおいては,今日ではもはや完全な保障はされていないのです。



イギリスの1994年刑事司法および公共秩序法34条は,以下のように規定しています(要約です)。


「被疑者が,当の犯罪の捜査・訴追に当たる警察官等から質問を受け,または訴追されたこと,もしくは訴追されるかもしれないことを公式に告知された際に,後の手続で同人が防御上主張することになる事実を,当時の事情からみて,その場で述べておくことが合理的に期待できる場合であったにもかかわらず述べなかったときは,後の同人に対する被告事件の手続において,裁判所ないし陪審は,そのことから適当と思われる推認を導くことができる。」



このような立法がされた理由につき,当時のハワード(Michael Howard)内相は,「いわゆる黙秘権なるもの」は,被告人に対する手続的保障が広範に整備された今日ではもはや無用の存在であるばかりか,



本来何も隠すことのない無実の者を益するものではなく,テロリストや職業的な犯罪者達により捜査や処罰を妨害するのに悪用されるだけであるから,これを修正するため,



被疑者が警察での取調べにおいて質問に答えることを拒否し,あるいは,被告人が公判で証言台に立とうとしなかったときは,検察側が陪審に対し,その事実から適切な推認を行うよう促し,裁判官もまた,そのように指示することができるようにすべきだ,と説明しています(井上正仁「イギリスの黙秘権制限法案(1)」『ジュリスト』1053号(有斐閣,1994年)39頁)。



同じ黙秘権という「権利」でも,日本とイギリスではもはや同等の保障はされていないのです。では「権利」とは何か,「権利」が「権利」であることを支えているものは何か,という問いかけを,私たちは再度行わなければなりません。



とても哲学的な問題ですが,やはり大切なことは,紙の上に「権利」であるとして書かれた活字そのものが大切なのではなく,その活字にすぎない「権利」を私たちはどのように動かしていくべきか,その「権利」をどのように動かせば,社会は最も幸せな姿になるのか,という視点だと思うのです。