先週9月10日(金)に大阪地裁で出された,村木・厚生労働省元局長に対する無罪判決において,裁判所は証人について捜査段階で作成されていた,元局長が犯行に関わったという内容の供述調書は,その作成過程に問題があったとして,証拠として採用しませんでした。



また,本日9月16日(木)に福岡地裁で出された元看護課長についての傷害事件の無罪判決においても,犯行を認めたとされた元看護課長の捜査段階の供述調書につき,同人の真意を反映していないとして,その信用性を否定しました。



これまでの刑事裁判では,捜査段階における供述調書で被告人に不利な内容の記載があれば,当然のように有罪判決が出されていたように思います。



それは,検察庁を始めとする捜査機関に対する裁判所の信頼の現れだったのでしょう。しかし,本来の法曹三者制度の趣旨から考えると,そのような運用はおかしいものだっと思います。



これまでの記事にも書きましたが,法曹三者制度は,発生した事件を検察官,弁護人,裁判官の3つの役割,方向から光りを当てる制度です。この世に完全な人間は存在しないけれども,それでも発生する事件を社会として適切に解決するために,編み出された知恵だと思います。司法試験に合格した者を,裁判官,検察官,弁護人の3つの役割に分けるのは,そのような趣旨でしょう。

その観点からすると,これまでの法曹三者制度,そして刑事訴訟の運用は,検察庁の立場に重点が置かれすぎてきたように思うのです。

戦前は検察官は裁判官と同様に壇上に座っていたことは別にしても,現行刑訴法の判例法をご覧になると,基本的には被告人を有罪にするための法の動かし方が並んでおります。

そのような日本の検察官優位の法曹三者制度が,平成21年5月の裁判員裁判の開始をきっかけとして,三者が対等な形の制度へと生まれ変わろうとしているように思います。上述した2つの判決は,その現れではないでしょうか。



法曹三者制度が,「この世には完全な人間は存在しないのだ」という,人類がたどり着いたとても悲しい結論から始まった制度であるならば,その運用において犯罪の証明が不十分である場合には「疑わしきは被告人の利益に」の原則を厳格に適用して,被告人を無罪とするべきなのです。



なぜならば,この世に完全な人間は存在せず,誰も本当にあったことを知らないのですから。



被告人は自分が有罪か無罪か知っているではないか,と思われる方もおられると思います。でも,有罪か無罪かは,実は被告人も分からないことが多いのです。

今東京地裁の裁判員裁判で,押尾さんが保護責任者遺棄致死罪に問われていますが,押尾さん自身は事件の状況から,自分が有罪かどうかを正確に判断できるのでしょうか。

被疑者や被告人に黙秘権が保障されているということ,また裁判では被告人の自白だけでは有罪としてはならない,必ず補強証拠が必要であるとされているのは,発生した事件について社会が評価を行うのが刑事裁判だからです。被告人自身の評価は関係ないのです。

社会は万能ではないという原則に,私たちは立ち返る必要があると思います。


仮に9人の真犯人が無罪となる結果となっても,それでも1人の無罪の人が有罪・冤罪となるよりはいい,足利事件の菅家さんのような方を社会は作ってはならない,というのが無罪推定の原則です。それは社会は完全ではなく,社会では多数決で奪うことができないものがあるとされることから導かれる結論です。



そしてその,社会において多数決では奪うことができないものこそが,基本的人権であって,それを保障している法が憲法である,ということになります。