平信徒として語る、「信」を能入となし「智」を能度となす 【11/18のTwitter】 | LEO幸福人生のすすめ

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幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
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レオ

 

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1、昨日は宗教に関心を持ち始めた頃の事情、聖書を読み、三浦綾子さんによる入門書を読んだことを書いたけれども、三浦綾子さんの入門書の前書きには、こうあります。 (以下、引用)

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わたしは 平 信徒であって、牧師でもなければ、神学者でもない。しかし平信徒なりの平易な手引書もあってよいのではないかと、おこがましくも手をつけたのである。

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日本の国では、まだまだ聖書は読まれていないとわたしは思う。その手引書として、この文庫版が新たな読者層に読まれるならば、何という幸いなことであろう。

 

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2、わたしはキリスト教も素晴らしいと思い、イエス様を尊崇しているけれども、いまは幸福の科学の信者。 でも、この三浦さんが前書きで書いた志は、キリスト教のところを「幸福の科学」に置き換えてみれば、いまでも大切な、宗教者の心構えだと思います。

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プロの神学者ではなく、ただの平信徒かもしれない。 でも、その平信徒というか、在家信者から見た幸福の科学を語って、手引きとなるような入門みたいな、そうした発言を書いてもいいんじゃないか、と思うのです。

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間違ったことを言わなければね、自分の出来る範囲で真摯に正確に学んで、あまり出しゃばらない、謙虚に誠実に、素直な言葉で語って、幸福の科学の魅力を語れるなら、それは大切なことではないかと思います。

 

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3、三浦綾子さんはキリスト者として、膨大な数の小説とエッセイを遺して、いまでもファンがいます、愛読者がいます。 三浦さんは、自分が書くのは、キリストへの信仰を証しするため、キリストへの信仰と愛を語って、人々にそれを勧めるためです、と語っていたと思います。

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これが著作の原動力であり、自分がものを書く際の条件であり、テーマだった、とのこと。 神の前で、人は謙虚であらねばならない、ということを三浦さんは以下のような文章で、その入門書においてつづっています。これ、わたし20代の頭のころに読んでたんだなー、と思います。(以下、引用)

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真の科学者ほど、謙遜に神の意志を自然の中に見るという … (中略) 世には、神という言葉を聞いただけでせせら笑う人間もいる。わたしたち人間は、容易に神を信じ得ないものを確かに持っている。自分の小さな頭の中で神を認識しようとする以上、それは無理なのだ。

 

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4、神は全宇宙よりも偉大な存在である。人間の頭で認識しようがないのは、当然である。   次のことだけはやはり言っておきたい。   それは、よくいわれることだが、「神」は認識の対象ではなく「信ずる」対象であるということである。神がいる (引用おわり)

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ほんとうに素直な心で、神を信仰する人は、証明して見せろ、証拠を出せ、なんて言わないものです。 いったい何さまだよ、と言うしかありませんね。 神が自分のかたちに似せて人間を創った、という箇所も、これは「霊性」に似せて人間を創った、という意味なのだと読み解きつつ、

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神がご自身に似た霊性を人間に与えられたということは、神が人間をどれほど深く愛してくれているか、ということであるし、 人間が、神の御心を知って生きることを、期待されているからではないか、と書かれています。 深く学ぶ人の理解はかくの如し。謙虚なる心が深い理解を導くのですね。

 

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1、人間心でつかめない広大無辺の世界が「信の世界」であって、霊界から宇宙から神仏の存在まで、五感ではわからないし、だから信の世界であって、素直な心で信じることが大事。 その一部を人はわずかに知ることが出来るだけ。いやこれもまた聖者の言葉を信じているだけで、知っていると言えないかも

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神仏の教えを、素直に、敬虔な心でもって学ぶ。 信仰の心のもとに、神仏の智慧を教わる。仏の智慧にわずかなりともあずかる。そこに正しい道があるし、魂の真の成長がある。

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神さまに仕えようとの殊勝な気持ち、謙虚なる心、尊崇してやまない心。 これが信仰の出発点だし、信による解脱への道があるのだと思います。 神さまにあれこれ要求したり、不信の気持ちを抱いたり、文句を言うようでは、信の入り口にも立ててないし、0点でしょう。信仰心は無い。

 

レオ

 

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2、素直に信じる気持ちがあるからこそ、仏陀の教えを素直に学び、イエス様の言葉から学び、その他の聖賢からも学べるのであって、 そこにすぐに自我を入れて、自分はこう思う、ああだこうだ、こんなのは知恵でもなんでもなくて、単なるその人の我見や迷いや自己主張でしかないでしょうね。

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レオ

 

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素直な心、謙虚な心、尊崇する心、敬う気持ち、尊顔を拝するのも畏れ多い、という気持ちがあるのが本当であって、 そういう気持ちの人だからこそ、教えを素直と学んで、自分の戒めとし、教訓とし、課題として精進ができるんですよね。

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知恵が見に付くのは、その先のこと。 信が立っているからこそ、神仏の智慧にわずかなりともあずかれるようになる。学ぶことが出来る。 信の無い人の知識は、我見であったり、知識自慢にすぎなかったり、それは神仏の嘉される智慧なのだろうか?と謙虚に自己を顧みないといけないでしょうね。

 

レオ

 

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3、「信」を能入となし、「智」を能度となす 信から入って、智慧に至る。 東京ドームの「悟りの時代」で、総裁先生が教えてくれた論点です。 当時、聴いていた聴衆は、頭がクラクラしながらこの法話を聴いていたと思いますよ(笑)  この前後の解説がめくるめく内容のオンパレードだったから。