「光あるうちに」 家庭の愛、病室の愛 | LEO幸福人生のすすめ

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三浦綾子さんには、自伝三部作がある。「道ありき」三部作。

これは信仰に目覚めたあとのことが書かれている。だから信仰入門編となっている。

 

昨日か一昨日に、三浦綾子さんの言葉を参照してTweetした。

「旧約聖書入門」をちょっと読み、そこから引用したりして、この書名が出てきたので、ちょっと読み返してみた。

 

冒頭から、線を引いたところを引用してみると、

 

「人間は必ず、いつか、何かが原因で死ぬ者なのだ」  死なない人は一人もいない。王でも 乞食 でも、金持でも貧しい人でも、有能でも無能でも、健康でも病弱でも、一人残らず死んで行く。  

カトリックの修道院では、 「人間は死ぬ者であることを銘記せよ」  という意味の言葉が、 挨拶 の言葉だと聞いたことがある。人間が死ぬ存在であることを、本当の意味で知っている人こそ、本当に生きる人であろう。

 

死を知って生きる人こそ、本当に生きる人だろう、と三浦さんは書いている。

ほんとうにその通りだと思う。

 

死を知らない、考えないで生きる人は、今日があるように明日もあり、明後日も、来月も、来年もあると思っている。まだとうぶん、死なない、と思っている。

でも、そうではないのだ。

ある日突然、事故で死ぬこともある。いきなり重病であることが判明して、余命何年と宣告されることもある。

若いからといって、あと何十年の生が保証されているわけではないのだ。

 

その時は、あるとき突然やってくるのかもしれない。覚悟も出来ていないときに告げられて、その時になって初めてオロオロし、まだ生きたいと嘆き、悲しむ。

 

幼い子を残したまま、いま死ぬわけにはいかない。

老いた父母が亡くなるときにしても、平気なわけはない。悲しいのだ。

自分の死だけでなく、あとに残していく者、残される立場であっても、悲しいのだ。

 

なのに、そういう事態を想像もしないで生きるのは、皮相な生き方にすぎるのではないか。終着点がどこにあるのかも知らず、この列車は終着点の無い無限の先までつづく列車だと勘違いして、旅をしているようなものだ。

 

しかし終着点はあるのである。この世の旅には終わりが来るのだ。

 

 

わたしたちにとって大切なのは、いつかは 遂に死ぬ自分が、その日までどのような姿勢で生きるかということであろう。来る日も来る日も、食事の支度と洗濯と掃除のくり返しでもいい。いや、そうであっていい。ただ、いかなる心持で、それらをくり返すかが問題なのだ。家族が楽しく 美味しく食事ができ、清潔な衣服を着て、 整頓 された部屋に 憩い、しみじみと幸せだと思える家庭をつくる。それがどんなに大いなる仕事であるか、働きであるかを、考えてみることが必要なのだ。  

自分がこの世に存在するが 故に、この世が少しでも楽しくなる、よくなるとしたら、それは大きなことではないだろうか。

 

 

専業主婦で、家事に追われて、来る日も来る日も、炊事・洗濯・掃除に追われて、自分の人生は何なのだろう?と疑問に思う人もいるだろうけれど、

三浦さんは、そういう日々でいいんだよ、と言っています。わたしもそう思う。

 

家を守る仕事、家庭を守る仕事、そのなかで子どもが育ち、大人になってゆく。

あらたな人間を、この世界に成長した姿で送り込む。立派な仕事。

 

この世では、肉体を維持するためだけでも、大変なのだ。

三食の食事をきちんと摂って、季節に応じた衣服を来て、着心地だけでなく見栄えも当人が嬉しがるような衣服を来て、嬉しい。掃除をしないと、すぐに埃がたまってしまい、部屋はちらかる。汚れる。

主婦の毎日の仕事は、同じことの繰り返しが多くて、たいへんだ。

でも、それを母親がやってくれないと、家庭は守られないのだ。尊い仕事なのだ。

 

家庭を、愛の心でもって育み、支えること。

神さまは、その仕事の大切さを知っていて、その任務を母なる魂に授けているのだと思う。

 

お弁当を毎日毎日作ってくれたことも、そのときは子供は当たり前のように思って感謝も足らないかもしれないけれど、振り返り見れば、当たり前でないことがわかる。どれほど自分のために、母が毎日早起きして作ってくれたのかを思うと、涙が浮かんで感謝せざるを得ない。出来た子は、その時点で感謝をすることだろう。

 

 

仕事という字を見てみよう。 仕える 事えると、二字とも、まさしくつかえると読む。仕事とは、つまり仕えることなのだ。働くという本来の字も見てみよう。にんべんに動くと書く。人のために動くこと、それが働くということなのだ。  

わたしたちに、もし生きる意欲がなくなっているとすれば、それは適当な仕事がないからではなく、人につかえる、人のために動く気持が失われているからではないのだろうか。  

生きているということは、動いているということだ。心臓がかすかにでも動いているうちは生きている。死ぬとは、全く動かないことだ。死ねば呼吸もとまり、心臓も全く停止する。だが、生きていて死んでいる状態の人間がいる。それは、人のためには決して動かない人間だと思う。つまり、働くことのない人間の心は死んでいる、とわたしは思う。

 

 

睦子さんは確かに病人である。長い間、じっとベッドに臥ていて、何の働きもしないように見える。だが彼女は多くの病人を慰め、力づけた。彼女がそこにいる。それだけで、人々は日々慰められたのだ。生きている人とは彼女のような人をいうのではないか。働くとは彼女のように、人のために心をつかう人のことではないだろうか。

 

 

この睦子さんという女性のエピソードを読んだとき、わたしはとても感銘を受けたのを思い出す。

 

睦子さんは病院のベッドで寝たきりで、当時入院していた三浦綾子さんよりもさらに重症のようで、ベッドから降りることも出来ないような人だったと思う。

 

しかしいつも笑顔で、その睦子さんの部屋へ、多くの入院患者が訪れる。

はじめて三浦さんは、みんな睦子さん睦子さんって話に出すけど、自分はその人を見たことがない。どんな人だと思っていたら、

なんと自分の病室のベッドから、起きて動くことも出来ない女性だったのだ。

 

しかし睦子さんは人気があって、みな睦子さんのところへ行きたがる。なぜだろうか。

 

睦子さんは、訪問者の悩み事や悲しんでいること、そういった患者の話を、うなずきながら聴いてあげていたのだ。患者たちは、睦子さんに話を聴いてもらえるだけで、心慰められ、ホッとして、自分の部屋へ帰ってきていたのだ。

睦子さんはイヤイヤ患者たちの話を聴いていたのではあるまい。心から興味を持って、その人に寄り添いながら話を聴いてくれたに違いない。

だから患者たちは、睦子さんに話を聞いてほしくて、睦子さんの部屋を訪れていたのだ。

 

睦子さんは、身体は動かすことが出来なくとも、心は自由自在だった。訪問する患者さんたちの気持ちに合わせて、あるときは相槌を打ったり、うなずいたりして、話を聞いてあげたに違いない。

 

これが、生きるということであり、与えるということであり、愛の人生、ということなのではないかと思う。

 

小さな存在の愛かもしれない。けれど彼女の存在は、多くの人たちにとっての愛だったのだ。