自分という人間の存在意義 | LEO幸福人生のすすめ

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自分の存在意義をどこに求めるか。

 

他の人たちに必要とされている、ということが実感される時に、

それは、家族であったり、職場の仲間たちであったり、その他、親しい友であったり、自分を必要としてくれる人間がいることだ。

 

自分はまだこの世界に必要とされているのだと感じられて、また生きる意欲が湧いてくる。

その人たちのために、自分はまだこの世界で頑張らないといけない、と思えてくる。

 

誰からも必要とされなかったら、これほど侘びしいことはないだろう。

ロビンソン・クルーソーでさえ、国元で待ってる家族がいるのだ。

人には、自分を大切に思ってくれる他の人が必要なのだ。

 

けれども根本の根本には、神仏の存在がある。

わたしたちは、神仏から別れでた、末端の、最先端のエネルギー体なのだ。

神仏とつながっている、神仏の子供が、わたしたちあらゆる生命体の本質なのだと、偉大なる宗教は教えている。

 

わたしの魂は、神仏の分け御霊であり、今でも神仏とつながっている、神仏のさきっちょみたいなものだ。

だから神仏と分離して、孤立しているわけではない、いまでもつながっている。

 

そういう意味で、わたしの魂、わたしの個性は、わたしだけのものではない。

神仏からの預かりものとして、使命を与えられた存在として、この個性と魂をになっている。

 

そうして魂がそういう状態である以上、この自分の肉体も、自分だけのものではない。

神仏から与えられた預かりもの、借り物という意味があるのであって、自分の体だから自分の好きにしてよいではないか、という言い分は、だから否定されるのだ。自分勝手に使っていいわけではないのだ。

 

神仏の子としての自分。どこまで自分が真に理解し、実感できているのかはわからない。頭の理解と魂の実感は違うものだから。

けれども、この魂も肉体も、自分だけの持ち物ではない、という視点は忘れないようにして生きようと思う。