正しく思うための三条件とは | LEO幸福人生のすすめ

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八正道の「正思」、正しく思う、ということを実践するためには、信仰心が不可欠で、

人間側の心掛けとしては、素直さ、自助努力、謙虚さ、の3つのポイントをきちんとこなしているかが大切、とのこと。

 

自分には、素直な心があるだろうか。

謙虚な気持ちがあるだろうか。

神仏を深く敬愛して、そうして自らを小さな者とへりくだる気持ちがあるだろうか。

そうした気持ちが欠けてくると、人は素直でもなくなるし、謙虚さも失ってしまうものだろう。

そこに自分への自惚れや、自己愛、自分中心の発想、というものが入り込んでくる。魔境が待ち構えている。

 

自助努力、とあるところが重要で、これは自分自身、つねに努力しているから自助努力はしているな、などという話ではなくて、前後の、素直さや謙虚さとも当然つながっている、そうした意味での自助努力ですね。

すなわち、神仏へ向かってゆく精進としての自助努力なので、信仰心は無いけれど自分は努力はしている、というのでは当てはまらないことになる。それは単なる自分中心の、自己愛や自己顕示、そうした動機にもとづく頑張りでしかないので、神仏へ向かう途上の心掛けとは決して言えない。そこが注意点なのだと、わたしは思います。

 

さまざまな人間がいるから、人それぞれ、いろんな考えがあっていい、という考え方も、そこで終わったら単なるアナーキーの放任主義にしかすぎない、というのも、わたしは深く共感するものです。

人はさまざまな個性を持って生きている存在ですが、なにをやってもいい、何をやっても許されている、なんていういい加減な存在ではありませんからね。

やっていいことといけないこと、善悪の区別はきちんと存在するし、それはこの世界を統べられている神仏の理念によって規定されているものです。

それと同じことですが、神仏が統べる世界である以上、人がさまざまにいろんなことを考えて行動しているとは言っても、その頂点には、北極星のごとく行くべき道を指し示している神仏の法というものがある。最終的には、そこを拠り所とし、そこを目指し、その神仏の思いに適っているか、それとも遠い考えであるのかどうか、という見方によって、人それぞれの勝手な思いは、正否が分けられるところがあるわけです。

 

だから、こうした考えが無い人、北極星のごとく、人が進むべき道を悠久の昔から指し示している一点を無視して、すなわち、神仏を信じる心も無い人が、人それぞれ自由でいいのだ、というようなアナーキーのススメをしていたら、それは否と言われるべき愚論であるのだし、自分は努力しています、と言ったとて、それは神さまの方へ向かっての、確かなる自分の向上のための努力ですか、それとも単に、自分の人間心が、俺はこうしたいからこうしている、といって何かに夢中になっているだけのことなのか。

その違いを判別するところに、信仰心の下の自助努力であるのか、それとも単なる自我我欲や自己愛にもとづく、自我力行動でしかないのか、そこをよくよく厳しく自己判定して、慢心や自惚れに陥っていないかをチェックしないといけないのでしょう。

 

素直さ、謙虚さ、が自分にあるかどうかを見ること。

神仏を心から敬う、そうした信仰の気持が薄れていないかどうかを、自己確認すること。

おのれの心をよく観て、そうしたポイントからの自己チェックを行って、ゆめゆめ自惚れや自己愛、慢心、自分勝手や自己中の方向へ、道を踏み誤らないようにすること。