信仰とは、信じて仰ぎみること、その姿勢が必須なものである | LEO幸福人生のすすめ

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今まですでに、数えきれないほどの記事を書いてきたけれど、

 

テーマ的には、同じようなテーマを、違った表現によって何度なく書き綴ってきたように思う。

信仰と愛の大切さ。知は大事だけれども、知だけで突き進むのは危うい。

自己愛に基づいた知は、自己保身や自己正当化の詭弁のための道具と化すだけであって、世界の真実を知ることからは、かえって遠ざかってしまう。

知は磨かれば磨かれるほどに、己を空しくする無我の境地へ近づいていってこそ、本当の智なのだと思う。

それに対して、自我我欲を捨てないままで、ただ知識を集めれば、それが己の優秀さであると勘違いしている人間は、決して智者とは言われないだろうと、わたしは思う。

 

他の人を愛する気持ちの無い、個人主義的人間。協調性を欠いてしまって、それゆえ他者との交流が出来ずに、独り籠って、独りよがりの方向で好き勝手に知を集積してゆけば、その知は非常に偏ったいびつなモノにしかならないだろう。それは真の知ではないし、神の叡智に届くものではない。それに逆らい、真逆のものであることも非常に多いと思う。

 

自分独りの独りよがりワールドに陥らないためには、他者への愛や、共感能力、協調性のある心、そうした和の精神が必要不可欠なのであって、これを欠いて、自分のみが優秀であって、他者は間違っている人間ばかりだ、などと思いあがったら、これは天狗の知や、仙人的な知、あるいは地獄的なるエゴイストの邪知でしかなくなるのではないか。

愛他利他の気持ちが無い人が、それと反比例するが如くに、いたずらに知の集積に励んだ場合、その歪みはやればやるほど酷くなる危険性があるように思う。

こういうタイプの人は、さらに知を研鑽するよりも、一度踏みとどまって自身の魂の致命的な欠点を反省すべきだろうと思う。

他の人への関心が薄い、他者を見下す心、オーソドックスで地道な理解を拒絶して、奇抜な発想や奇想天外な視点をひねくりだして、人を驚嘆させようとする、そうした虚栄心、自己顕示欲。

そういう姿勢で知を求めても、そこには神の叡智につらなる知は宿らない。真理には程遠い、真逆の歪んだ認識しか得られないのではないか、と思う。

 

信仰に関しても、カラマーゾフの兄弟のイワンのように、俺は神がいることを認める、などと幾ら言ったとて、神を認めると発言したからといって、その人が信仰者であることにはならない。

信仰とは、信じて仰ぎみる、という言葉になっている。仰ぎ見て敬う心、尊崇して見上げて、謙虚な心で神の教えに学ぼう、という姿勢が無い人間は、仰ぎ見てもいないし、信じてもいないのである。すなわち、信仰などとは決して呼べないものでしかないのだ。

 

宇宙の仕組みを考えて、神がいると考えざるを得ない、だから神がいることは認めよう、しかし、その神が世界の不幸を放任して、救おうとしないことをもって、俺は神が統べるこの世界を認めない、と傲慢にも言い張ったイワン・カラマーゾフ。

こういう手合いは、世にたくさんいることだろう。

旧約聖書の言葉を引用して、神はこれこれである、と言われるが、その定義からしたら、その神はどうのこうの、といって神を論じて、偉そうに考察する態度には、信じて仰ぎ見るといった謙虚さが無い。信仰ではなく、信仰以前の姿でしかないではないか。

ただ単に、宗教用語の使い方を覚え、その説明内容を知識的に知っていたとしても、その人が心に抱いている神のイメージ、神を仰ぎ見る姿勢に問題があるのなら、それはやはり信仰とは呼べないものだろう。

神がいることは認める。その言い方自体が傲慢であり、尊崇する気持ちの欠片もない物言いではないか。

 

素直に信じて、謙虚な気持ちで、仰ぎ見て敬う気持ちがあって、初めて信仰なのだと思う。

その謙虚さ、素直な気持ち、深い尊崇の念がある人間だからこそ、その人には、神が与えたもう知識が、しっかりと魂に根付いて、その後の人生を生きる心の支え、指針となるのだと思う。

敬う気持ちの無い人間の神談義は、神を語っているようでいて、まったく神に届いていない駄弁に過ぎないのだと、わたしは思う。

悪魔であっても、神という言葉を使う。自分自身を指して、俺が神だ、という悪魔や悪霊はごまんといることだろう。

それだけの実績も無く神を名乗ったり、論じたりする傲慢さこそは、災いではないか。

 

プーチン守護霊霊言と、バイデン守護霊霊言を読み比べると、

その政治家が偉大であるか、凡庸であるかの違いは、信仰心の深さに尽きているのではないか、と思わずにはいられない。

 

真実の信仰を持った政治家は、その信仰に基づく精神ゆえに、神の智慧にあずかることが出来る。信仰ゆえの深き智慧を獲得している。

その反対に、信仰心無き政治家は、人間心で勝手なことを言うばかりで、神の智慧になど見向きもしていないので、当然、深い智慧など得らえるはずがない。

智慧がないのは信仰心が無いからで、信仰心が無いから、他の人への愛が無いし、愛が無いから国民のためにいかなる政治が必要であるのか、考え出す力も無いのだろう。すなわち智慧が無い。

 

プーチン大統領の魂は、さすが、かつての大帝国のトップを張っただけの偉大な魂であって、その政治的見識の深さ、智慧の深さは計り知れないところがある。

単なるトップというに留まらず、実質上の大帝国建設者でもあったわけだし、中興の祖の如く国家の立て直しに実績を挙げたことも数知れず、そういう転生をしている方であるらしい。

ロシアの再建に辣腕をふるって、実際に成果を挙げているのは、それだけの実績と経験、智慧があればこそなのだろう。

 

大国家を率いる政治家には、それだけの資質が問われるのであって、これをもし凡庸な政治家が担ってしまったら、どうなるのか。

分不相応な力不足の凡庸な政治家が大国家を率いたら、その力の大きさに比例して、世界は大迷惑をこうむってしまう。

バイデンのアメリカこそは、まさにそれだと思うし、日本はどうであるかといったら、もう政治家の質が二流どころか三流、四流、五流、と言ってもいいほどの低レベルであってみれば、お話にならない実態となるのも当然か、と言いたくもなる。

 

バイデン守護霊は、自分こそが神である、と傲慢にも言い切っている。信仰心など無い証拠であろう。

対するプーチン守護霊は、謙虚な心で、神を信じていると、素直に告白する言葉を幾度となく述べている。

信仰心を持った政治家とは、こういう人のことを言う。