神は存在する。 しかし私たちは、それを証明することが出来ない。 また証明すべきことでもない。 | LEO幸福人生のすすめ

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トルストイの箴言集。四分冊。

いずれの巻においても、メインテーマは、神さまのこと、神さまについて、である証拠として、

全巻からそれぞれ、神とは何か、という例題を1つか2つ引用してみました。

神についての理解を深めたい方には、オススメの箴言集かと思います。

 

 

 

神は存在する。 しかし私たちは、それを証明することが出来ない。 また証明すべきことでもない。

神は、私たちの良心の中に、人間の意識の中に、 そして私たちを取り囲む全世界に存在している。

 

神を信じて生きている人は、神の存在が「証明されたから」信じているわけではないし、「証明がないので」中途半端にしか信じていない、なんて生き方もしていないだろう。

 

神の教えとは、これこれ、こういうものである、という教えを聞いて、なるほどそうであったか!と素直に喜び信じて、そのように生きようと、日々努力、実践している人こそは、神に従って生きている人ではないか、とわたしは思う。

 

神は私たちの良心の中に、すでに存在しているのだ、とトルストイは言っている。

良心というのは、神の分光としての光の部分、各人の心の中心に光る、神そのものから分かれ来った大いなる光ではないだろうか。

美しい良心を持ち、それを光り輝かせて生きる人は、良心に目覚めて生きている人であろう。この人は、神と共に生きている、人生を神のもとで歩んでいるのだ。

しかして、良心の眠れるが如し、良心など無きが如しの、利己主義、自分中心主義に生きる者は、神と共には生きていない。こういう者ほど、理屈にて神とはなんぞや?というこだわりに過ぎて、結局、神を信じることなく、それがゆえにエゴに生きるはめに陥っているのだろう。

特徴としては、素直さが無い、純真な心が無い、そうして頭でっかちの屁理屈人間になると、このような証明主義に堕する、という傾向性があるように思う。

 

神を否定することは、 精神的な理知的な存在としての自分自身を、 否定することを意味している。

 

神を否定することは、自分自身の存在をも否定するのと、同じである。

なぜなら、当人が認めようが認めまいが、万人の魂は等しく、これ皆、神の分け御霊であるのだから。

神の一部分としての生命が、わたしたちという存在の本質であるのに、その生命の大本である神を否定して、神などいない、と言う人間は、いかに愚かな主張をしているか、わかっていないのである。自分を否定するに等しいことを言っていることを自覚しておらず、それどころか、あらゆる生命をも否定する愚挙を行なっているに等しいのである。なぜなら、それらの存在すべての大本の生命の源を、否定しているのだから。すべてを否定し去る邪悪な思想に堕している状態にある、ということである。

 

 

 

神に近づくのは、結婚と同じである。 自ら気の進まない時には、 近づくことの出来ないものである。 そしてそれゆえ、自ら神に近づくことをしないものには、 私は「それでは進んで誘惑に落ちよ」と言う。

 

神は、人間の魂の親である。

しかして、親の恩を顧みずにこれを否定する者は、親を無視して、親など知らない、と言うであろう。

人間世界での、この親子関係の薄情を、神と子である人間との関係でも、比喩によって譬えることが出来る。

神のことを思わず、神など知らないという人、神に向かって自ら努力をしないで生きようとしている者、そういう人間に対してトルストイは、だったら「みずから進んで誘惑に堕ちたまえ」と言っている。

自分でそうしたい、堕落したい、神のもとで生きる努力などしたくない、魔の誘惑のが楽しそうだ、という人には、体験してもらうしかないね、とトルストイも言っているのである。

厳しいようだけれども、これが自由意志を与えられた人間の責任というものであり、受け止めるべき覚悟というものなのだと、言わざるを得ないのだと思う。

 

 

 

最も愚かしい迷信の一つは、 科学者たちが 人間は信仰がなくても生活しうる、と 迷信していることである。

 

信仰などなくとも生きていけるではないか、という考えの傲慢。

それで天寿をまっとうできるかといったら、実は出来ていないというのが真相だと、わたしは思う。

唯物論の人生を生きて、晩年、死をまじかにして冷静でいられたかどうか、本当に心からの安らぎをもって、その人は生きられただろうか。

唯物主義者でありながら、博愛の人となり、人々を愛し、人々から愛される人生をおくれただろうか、と問うてみるに、寂しい晩年におそわれていたり、エゴを周りの人間から嫌われたり、そういう顛末に陥っていないだろうか。誰も、すべての無神論者の最期まで、追跡調査して確かめたわけではあるまい。

神など知らなくても生きられる、などという強がりの傲慢が、正しかったという証明だって、為されてなどいない、ということを知るべきだ。なのに、その根拠の無い無神論人生の肯定を、盲目的に信じるのなら、これは神を信仰して生きる人よりも、優れた判断などと何故言えるのだろうか? これまた一つの迷信でしかないのではないか。それも悲しい、過てる迷信の方であったならば、どうする?

 

人間は信仰がなくとも生きられる。これを言うのは、エセ科学者だけではあるまい。

学者ではない市井の普通の人であっても、同じような主張をするのなら、この人は上で批判されている科学者と同類であることを知るべきだろう。

トルストイから見たら、迷信を信じて生きている愚かな人間、ということになるであろう。

 

 

 

私たちの精神の高さによって、 私たちの信仰の強さも決まる。 私たちが、動物的な愚かさから遠ざかり、 利己的な卑しさや、 憐れむべき迷信から離れることによって、 信仰に対する懐疑が消え、 信仰に対する特有な徳性的な偉大さの中に 入っていくものである。

 

精神のレベルが上がると、信仰心も強くなる。信仰心が強い人ほど、その人の精神性は深い、高い、ということだと思う。

 

動物的な愚かさから遠ざかる。

利己的な卑しさを去る。

憐れむべき迷信から離れる。 → 神などなくても生きられるという迷信も含まれる。

 

こういう心の状態になると、懐疑の心など消えうせる、ともある。

懐疑主義に堕しているあいだは、その心、信仰などには程遠い、ということかと思う。

疑い深い心の持ち主が、神を深く信頼して信じきる、などという芸当が出来るわけもないからである。

懐疑主義というのは、信仰薄き、あるいは信仰など無きが如しの、迷いの中にいる人間の心境以外のなにものでもないだろう。

 

神と死後の生活が存在することを、私たちが信じるのは、 論理の上からではなく、徳性の上からである。

 

神が存在すること、死後の世界が存在すること、わたしたちがこうしたことを「信じる」のは、論理の上でのことではない、と言っている。これは、カントの言葉からの引用だ。

 

あの理屈っぽい、論理思考の塊のような哲学者カントにして、上のようなことを言っていることに注目すべきかと思う。それをトルストイが引用している点にも!

 

論理的に整合性が取れるから、神の実在を信じる?あの世が有ることを信じる?それも一つのアプローチの道だけれども、そうした頭でっかちの理屈だけを根拠にして信じる人は、頭で納得することにこだわっているだけで、自分の魂の徳性との関連には、関心が行っていないのではないか?

 

頭で考えた理屈だとか、理論、これこれの理屈、論理的な整合性、そんなことのみで、わたしたちは、神を信じるわけではないでしょう。

むしろ、魂からの切実な求めに応じて、神を求める心がやまない、そうして人生の途上でいつしか、神と巡り合う時を持つことが出来る。

そうして、神のもとで教えを学び、神がこのように生きよと人間に教えている言葉を聞くときに、その教えに従って生きることで、自身の徳性を磨くことに気持ちの力点は遥かに大きく置かれていると、そう言わざるを得ないであろう。

神の教えを学んで、理屈が達者な人間になりたいといって勉学に励むであろうか、論理的にパーフェクトな思考者になることを目指して学ぶのが、信仰であろうか。

神ははたして、そんな生き方を万人に求めて、その教えを地上に降ろされたであろうか?

地球人類がすべてパリサイ人の学者にでもなれと? そんなはずはないだろうと思う。

 

あらゆる心の段階の人がいる。民族も違えば、年齢も違えば、性別も違う、立場も違う、さまざまな人間がいる。

そうした人たちに、神は教えを与えたもう。その教えによって、人は、その人なりの魂の徳を磨くことに、重点を置けばそれでよいのではないか、と思う。

徳性を磨くこと、徳性を育むことこそ、神の教えの真髄ではないか、そうカントは述べているのではないかと思う。

これは、カントの著作『実勢理性批判』の論拠そのものですね。神は、人間が守るべき、目指すべき道徳法則の根源において、この道徳の絶対性を有らしめるために、まさにそれゆえにこそ、神は実在する、そうカントは述べていたわけですから。