無知であることを恐れるな。 うその知識を持つことを恐れよ。 この世の悪は、全てそこから生じる。
無知よりも、うその方がいっそうタチが悪い、ということを述べています。
この世の悪は、そこ(うそ)から生まれてきている、とも述べていますね。
『平気でうそをつく人たち』の著者である、スコット・ペック氏も同様のことを述べていました。
「邪悪なものがあるときには、きまってそこにはうそがある」
「邪悪なものというのは、必ずうそと関係があります」
なぜ、うそは、無知よりもいけないものなのだろうか?
無知は、知ることによって、改善される可能性があるけれども、
うそを言う人は、真実を否定しても平然としているので、真理によって改善される可能性がきわめて低い、ということかと思います。
なぜ、うそは、この世の悪をすべて生むほどの「悪」と見做されるのか? そこまで悪質なものなのだろうか? たかがウソごときが、それほどの罪なのだろうか? といったら、
うそというのは、真実を晦ますもの、事実関係に事実でないものを混ぜて、真相をくらまそうとする、そういう悪質な改悪ですね。事実誤認させるために、真実でないことを混ぜて平然としている。
真実、事実というのは、この世において、あの世においてもそうですが、因果の理法にのっとって、これこれが原因だと、こういう結果になる、そうした因果の連鎖があるわけですが、
うそというのは、これを誤魔化す、くらます、これこれの結果は、それが原因じゃないよ、違うものが原因だよ、と言ってみたりして、真実の原因を誤魔化して、にせの原因をでっちあげたりするわけです。
出張のふりをして浮気をしていた亭主が、妻にばれそうになって、別の理由をでっちあげたり、相手の女が悪いのだ、といって責任転嫁してみたり、自分の欲と身勝手が原因であることを認めず、これを晦まし、胡麻化そうとする。そういう嘘をつく。
ウソによって、真実がくらまされると、人はなにが本当のことなのかわからなくなるし、この世の因果を正しく見ずに、間違った原因と結果の偽の関係に晦まされたりして、そうして真実を見失う。世界の真相が見れなくなる。
これはある意味で、この世界をすべている神仏への反逆であり、世界の理法を晦まそうとの狡猾さにつながってゆく、ということになるわけです。
うそをつくこと = 真実を誤魔化しても平気な人間になる
という意味で、これほど、悪への道まっしぐらの方向は無い、と言ってもいいくらい。
それほどまでに、悪の主原因であるのが、うそをつくこと、なのだと、わたしは思います。
だからこそ、仏陀は、在家信者の守るべき、わずか五つの戒律の中にも、嘘をつくなかれ、という項目を入れてありますね。
冒頭のことばの引用元も、おそらくは仏陀のことばであろうと思われます。
成長は徐々になされるものである。 一気に達成されるものではない。 どうして突然の衝動で、 科学の全領域を知ることができよう。 どうして突然の悔悟で、罪に打ち勝つことができよう。 精神的な進歩の手段は、 知恵深き教えに導かれた忍耐と努力の他にないのである。(チャンニング)
心の成長は、徐々になされる。
宗教においては、劇的なる回心の時、というのがある。心の状態がクラっと、今までとはまったく違ったレベルの境地に至って、クラっと別人のようにモノの見方が変わる、ということがある。
あるけれども、それでもそれはまだ、出発点の改心でしかないのであって、
そこから、新たなる旅立ちとしての、新生した人生を生きねばならないのであろう。
改心して、これからは世のため人のために生きます、といって、非常に純度の高い気持ちに立ち返って、神仏のまえで決意したとしても、
はたして、その決意を本当にこれからの日々、毎日の人生できちんと実践できますか。
三日坊主で終わらずに、一日一日、毎日、毎月、毎年、そしてこれから先の数年数十年の人生を、その新生した気持ちでもって、生き切ることが出来るか。その覚悟があるか、持続力があるかどうか。
一気呵成に、ただ一日ですべてが終わり、済むわけもないのであって、真に生きるのは、これから先の数十年の人生の、実践にかかっている。
だから、忍耐と努力、というキーワードが入っているのだし、徐々に徐々に、真の成長はなされるのである、とも言われているわけで、
そう簡単に、心の変化は確固たるものとして出来上がるわけではない、ということ。
これを肝に銘じないといけないのだと思いますね。
簡単に出来上がる人、地道な努力を嫌がる人、即席の成功を求めてしまう人、忍耐力の無い人、長い歳月を待ちつづける根気の無い人、楽な道を歩もうという怠け者。
こういう手合いであっては、上の引用文にあるような境地には、到底いたることは出来ないだろうと、わたしは思います。
喜びとともに生きていく重要な方法は、 人生には喜びが与えられているということを信じることだ。 もし喜びがなくなったら、 あなたが何を間違ったかということを探すようにせよ。
これも、重要な言葉だと思う。
非常に深い意味において、この言葉は受け止めるべきではないか、と思う。
ここで言う「喜び」というのは、刹那的な喜びや快楽などではないのは、無論のことだろう。
もっと深い意味での、精神的なる深い喜び、心がしみじみと感じる、心からの嬉しいという気持ち、そういう意味での喜びについてだと、わたしは考える。
そうした喜びは、というか、そもそも神仏は人間たちに、ただ苦しみや悩みのみを与えるわけもないのであって、人生に喜びを感じながら生きよ、生きてよいのだよ、と言っているのではないかと思う。
苦しみばかりが多くて、喜びなどは滅多にない。皆無である、と感じるのなら、
それは、わたしたち自身が、なにか大切なものを見失っているからではないか、という見方も、上記の引用文の見方からは生まれてくるのではないか、と思う。
与える愛の喜び、ということを、幸福の科学では教わる。
これは、人生における最も重要な奥義というか、人が生きる上でのメインテーマなのであろう。
他の人に愛を与える生き方は、喜びをともなう、その愛の生き方自体が、人生に喜びを与えてくれるものなのだ、ということを、大川隆法先生は教えてくれているはずである。
ならば、いま生きている毎日において、なんの喜びも感じられない、喜ばしいことなど何もない、と思って、不平不満の気持を持っているのなら、
これは自分の側の心の問題、自分の心が何か間違っているのではないか、基本も基本のところで、なにか肝心のことを見失っているのではないか。
そこはいったい、どこなのだろうか?
といって、自分の反省点を探すキッカケにもなるのではないか。
上の引用文は、そういう示唆をわたしたちに与えている、そういう名文なのではないかと思いますね。