ジャンヌを乗せた荷車。周りには80~120人のイギリス兵が護衛についている。
ジャンヌは足首まで隠れる長い裾の服を着せられている。
広場は縦横200メートルほどの広さ。中央にある建物の前に火刑台がある。
火刑台の南側、教会を背にした場所に桟敷がある。ボーヴェー司教ほか聖職者が座る。
一段低い桟敷には役人たちが並んでいる。広場に集まった人々は一万人。そして、総勢800人の兵士が、人垣の前で槍の林をつくっている。
朝の9時、ジャンヌを乗せた荷車が広場に到着。火刑台の側で最後の説教を聞かされるジャンヌ。1時間の間、説教師ニコラ・ミディの説教が続く。やがて司教が桟敷から判決文を読み上げる。
最後の判決
我等は…ここに汝を、教会から切り離し、見捨てる。
判決文を聞いてジャンヌは大声で泣き伏した。群集も号泣する。ジャンヌは群集たちに対して、
「私があなたがたに対して犯した罪を許してちょうだい。私もまたあなた方の罪を許します。(司教たちに向かって)私の魂の救済のために、どうかミサをあげて下さい…」
ジャンヌは30分間祈り続けた。そして
「誰か私に十字架を下さい」
一人のイギリス人兵士が、小さな木片を二つ合わせて十字架をつくり、ジャンヌに与える。ジャンヌはその十字架に接吻し、乳房の間に差し入れた。
ジャンヌは側にいた二人の司祭の一人に、
「教会へ行って十字架を探し出して下さい。死が訪れる瞬間まで、目の前に十字架を差し出しておいて欲しいのです」
修道士イザンバール・ド・ラ・ピエールと一人の司祭が教会へ走っていった。
ジャンヌは頭巾を脱がされ、そのかわりに「異教徒、異端、背教者、偶像崇拝者」と記した帽子をかぶらされる。そして杭に縛り付けられる。ジャンヌは、
「聖ミカエルさま…」と祈り続けている。
その間に薪に火がくべられる。ジャンヌは側で十字架をかかげる二人の司祭に、
「どうぞ降りて下さい…ただ最期まで十字架が見えるように高くかかげていてください」
赤い炎がジャンヌの足を焼く。ジャンヌは大天使ミカエルや聖者たちを呼び続ける。死の瞬間、彼女の絶叫がひびく。
「イエスさま、イエスさま、イエスさま…イエスさまーッ」
ジャンヌの絶命は昼ころだったという。
以上、『ジャンヌ・ダルク』村松剛・著(中公新書)から、冒頭部分の記述を引用要約しました。
このジャンヌ・ダルク伝は今では絶版になっていて、書店では手に入らないと思いますが、副題に「愛国心と信仰」とあるように、ジャンヌの生涯の真義を正しく語っていて、非常に優れたるジャンヌ伝だと、わたしは思っています。
ひと頃、ジャンヌ・ダルク関連の著書となると、迷わず購入して次々と読んでいった時期があるのですが、それらの大量のジャンヌ伝の中でも、この村松剛氏の著書は、ジャンヌ自身の証言を集めた『処刑裁判記録』や、幼少時代の友だちや後に共に戦った戦友たちの証言記録『復権裁判記録』と並んで、ジャンヌを知るにもっとも相応しい名著かと思います。
新書版ということでページ数は少ない。けれども、ジャンヌの生涯はわずか19年ですから、その伝記はおのずと、短いものとなるのがむしろ自然であるし、やたらと分厚いだけのジャンヌ伝はむしろ、余計な記述で膨らませただけに終わって、かえってジャンヌの本質がぼやけてしまうものが多いんですよね。
その点、村松剛氏のこのジャンヌ伝は、冒頭からいきなり、ジャンヌが処刑場へ向かう場面を再現するかのような描写で読者に迫ってきて、その場にいてジャンヌの死を目の当たりのようにするかのような戦慄を与えて、あまりの悲しみに茫然自失にさせられてしまいます。
振り返って、ジャンヌの幼い日々の証言記録を読んだ上で、いまこの描写を読み返すと、ジャンヌがこの日に心に抱いていた恐怖心と、それを耐えるための篤き信仰心、まったき信仰の強さを思わざるを得ません。
幼少時の友だちや村人は、幼いジャンヌがどれほど深い信仰心を持っていたかを、後の証言でみな等しく語っています。
祈りの時間はかかさず、何をしていようとも、神のもとへ駆け参じて行ったものだ、と言われていたと思います。そのように、熱烈に神さまを愛し、信じきって生きたジャンヌだったんですよね。
ジャンヌが初めて神の声、天使たちの声を聞いたのは、13歳の時。
行ないを正すよう、わたしたちが汝を助ける、という天使たちの声を聞き、その時はとても恐ろしかったです、と後にジャンヌは語っています。
何度もその声が自分に臨み、この声が常に自分を守ってくれる経験を重ねてゆくうちに、ジャンヌはこの声が神からのものであることを信じるようになり、そうした経験の後に、ある日、ジャンヌに偉大なる命令がくだったんですね。
フランスへ向かえ、フランスを救うのだ、お前がオルレアンを解放するのだ、という言葉がジャンヌに臨んだわけです。
ジャンヌは、自分ごときにそんな大それた使命が果たせるはずがありません、自分は貧しい娘に過ぎず、馬に乗ることも戦う方法も知らないのです、と断るものの、神の命は撤回されない。
度重なる天使よりの要請に、ついにジャンヌは自身の使命を甘受する決意をし、王太子のいる地へ向かって密かに出発するんですよね。
ジャンヌはついに生まれ故郷のドン・レミ村を去る。
一度失敗して村に戻るも、二度目の出立でついに旅立ってゆくジャンヌ。
これが今生の別れであり、二度とふたたび、この故郷に戻ることが出来ないという、その過酷なる運命も知らずに。
そうして、それからのジャンヌ・ダルクの活躍は、さまざまなジャンヌ・ダルク伝に語られている通り。
シノン城で不遇をかこっているシャルル王太子に対面し、神の言葉を告げ、イギリスの大軍に包囲されているオルレアン城へ、救援軍を率いて向かうジャンヌ。
それまではどう考えても、イギリス軍の圧倒的な勢力の前に、オルレアン城の陥落は必至の形勢だったのに、まさに奇跡の勝利、神の援軍による奇跡が起きて、ジャンヌは喝采の中でオルレアン城に迎えられる。
こうしてジャンヌは、それからの戦いにおいても、軍指揮官の立場に立って、フランスの兵士たちを率いて、戦ってゆくわけです。
ジャンヌが戦いの中に身を投じていたのは、17歳から18歳にかけての、わずか1年ほどのことだったと思います。
オルレアン城の解放は、1429年の5月8日。ジャンヌ、17歳のとき。
それから幾つかの戦いを重ねるも、コンピエーニュの町での攻防戦の際に、撤退戦のさなかに、まだジャンヌが逃げ落ちる前に、味方の城の城門を閉ざされてしまい、城外に取り残されてしまう。
城外に置き去りにされたジャンヌは、敵の大軍に取り囲まれて、捕虜となってしまう。
1430年5月23日。ジャンヌ、18歳。
オルレアン解放の奇跡から、わずか1年と少ししか経っていない、わずか1年の軍事的な活躍が、この時に終わる。
ジャンヌが虜囚の身となり、あちこちへ護送されながらも、最後に到着したルーアンの地で、異端審問にかけられた最初の日が、1931年の1月9日のことである。
そうして、処刑されたのは、その年の5月30日。早朝のこと。
異端審問は、2月に4回、3月には15回にも及び、その後、求刑や説諭、脅し、さまざまな圧力がジャンヌには加えられている。
その時の審問記録が邦訳でも入手できるので、ぜひ読んで欲しいと思います。
ジャンヌの毅然とした態度。
辛い虜囚生活と、周りには自分を敵視する審問官ばかりの中で、ジャンヌの答えは驚くほどの、深く揺るがない神への信仰、聖女たちへの信頼、そして神のもとに生きている信仰者ならではの、心の正しさと美しさ、純粋なる智慧に満たされていて、審問官の浅薄さとあまりに違うその心の深さに、わたしは胸を打たれます。
ジャンヌ・ダルクは、神の命を受けてフランスを救った、救国の乙女、神よりの使命をさずかって生きた聖女です。間違いない。
この聖女に対して、これは何という最後でしょうか。あまりにも悲しい、あまりにも惨い仕打ちではないか、これでは、と思わずにはいられないけれども、
ジャンヌはこの期に及んでも、神への不信や、天使や聖女たちへの不満を述べたりは決してしない。彼女の神への信仰、聖女たちへの信頼は、決して揺らがない。
なんという素晴らしい信仰と信頼の気持ちでしょうか。聖女でなくば在り得ない、この崇高さ、気高さに、驚嘆の念なしに、その言葉を聞く事さえ出来なくなります。
そうしたジャンヌに対しての、死刑宣告。
しかも、その処刑の方法は、火刑により、すべてを消し去ってしまうという、残酷な死刑になってしまうのでした。
火刑になると知らされた時、ジャンヌは号泣したと言います。そんなひどいことはしないで、わたしの身体を焼かないで、とジャンヌは泣いたそうです。
わたしはそのくだりを初めて読んだ時、耐えられなくて涙をボロボロ流して、その先を読むのがとても辛かったのを思い出します。
焼かれて何も残らなくなってしまう。教会に埋葬もしてもらえない、ということは、魂の救済もない、ということを意味していたそうです。だからジャンヌは、本当に自分の心までもが抹殺される悲しみと恐怖に、泣きさけぶしかなかったのだと思います。
最初の、村松剛氏による、ジャンヌ処刑の日の描写に戻ってみれば、
司教によって読み上げられた判決文で、汝を教会から切り離し、見捨てる。という言葉を聞かされた時、ジャンヌは大声で泣き伏した、とあります。
なんて酷いことを言う奴らだろう。許せぬ。フランスを救った乙女であるのに、なぜその救国の聖女に対して、こんな酷い仕打ちが出来るのか! 怒りが込み上げてこざるを得ない。
しかしてジャンヌは、私が貴方がたに対して犯した罪を許してちょうだい、私も貴方たちの罪を許します。
といって、従容として、死へ立ち向かう覚悟を決める。
わたしの魂が救われるために、せめてミサをあげてほしいと、司教たちに頼み込み、
そうして、30分のあいだ、熱心に祈り続けた、とあります。
誰か私に十字架をください
そう願うジャンヌに対して、ひとりのイギリス人の兵士が、即席でつくった木切れの十字架を、ジャンヌに与えたという。あなたは素晴らしいイギリス人だ。ありがとうと言いたくもなります。
その十字架を胸に抱いて、ジャンヌは、教会から十字架を持ってきて、わたしが死ぬ瞬間まで目の前で掲げておいてほしい、と司祭に頼みます。
そのあとでもさらに、ジャンヌに対する酷い仕打ちが続きます。
あたまに被っていた頭巾を脱がされ、「異教徒、異端、背教者、偶像崇拝者」と記された帽子をかぶらされた上で、ジャンヌは杭に縛り付けられた、とあります。
あまりにも可哀相な、神の使徒に対しての無礼、失礼、許しがたい侮辱。イエス様の時と同じではないか! 人類の愚かさ、罪深さよ、と思わざるを得ません。
炎が身体に燃え移った時、ジャンヌは大天使ミカエルや聖者たち、聖女たちの名を呼び続けたとあります。それは、周囲の人たちにも聞こえ続けていたことでしょう。そこにウソはない。
イエス様の名を何度も呼びつつ、ジャンヌはついに、その地上生命を終える瞬間を迎える。
このジャンヌの生涯と最期から、私たちは何を学べるのでしょうか。
イエス様を処刑したユダヤ人。ソクラテスを処刑したアテネ市民。
最近の霊言などを読んでいる中で、聖徳太子は実は偉大なる神霊の霊流を引いた御存在であって、という話がありましたが、だとしたらリンカーンの暗殺というのは、どれほどの重罪であったことか、と考えさせられてしまいました。
吉田松陰の処刑、坂本龍馬の暗殺。
人類はなぜ、この世界を救いに来てくれた偉大なる光の使徒の存在を、かようにして邪魔者扱いにして、その命までをも奪おうとするのだろうか。してきたのだろうか。
むろんすべての人間がそうだったわけではないし、多くのまともな人間たちが、これらの偉大な人を尊崇してやまない、そうしてその遺した言葉を学び、生き様から学び、人は何で生きるのかを学ばせてもらいながら生きているのだと思う。
けれども、いつの時代にも、これを邪魔だてする、悪しき心をもった無明なる人たちがいたのだ、ということ。今もまた、そうであるのだ、ということ。
ジャンヌ・ダルクの生涯は、今から600年前に、異国フランスで起こった歴史の一エピソードで済ませていい物語ではありませんね。
この方の生涯と、その最期から、人類が学ぶべきことは、まだまだ沢山あるはずだ、と私は思います。
人類の罪、その反省というだけでなく、真に偉大なる人、真の信仰を抱いた信仰者というのは、どこまで強くなれるものなのか、本物の信仰というのは、決して神を疑わない、天使たちを疑わない、まったき信頼のもとで生きることこそが、本物の信仰であるのだ、という学び。
そこに至っていない自分を顧みて、自身の未熟を正しく悟って、謙虚に、静かに道を歩むことの大切さを知る。
さまざまな学びがあるはずだと、思うのでありました。