この世で信頼した神は、来世でも同じ神であり、その神と私たちはより密接に結ばれるだろう | LEO幸福人生のすすめ

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なお光明を放つ他の点は、われわれがすでに現世において信頼すべき友として知り合った万物の主が、来世においてもまた、この地上であったと全く同じ 方 であるに相違なく、ただもう少し密接に結ばれ、もう少しはっきりと分かる点だけが異なるだけであるという考えである。 

 

地上人生において、自分たちが信じた神、信仰した主なる神は、あの世におられる神と、同一の神であるに違いない。と、ヒルティは述べています。

 

しかも、その神とは、地上での信仰による結びつき、以上の密接な結びつきになることだろう、と述べています。

 

これは、幸福の科学の信者であったなら、エル・カンターレ系団の中に入る、そうした天国に住まうことになるだろう、というのと同じだと思いますし、大川隆法先生もそう教えてくださっていますね。

 

キリスト教の熱心な信者であったなら、キリスト教系の霊団に入れてもらえる、熱心な仏教徒であったなら、仏教系の霊団へと帰ってゆく。イスラム教徒もまた然り。

これは無論、本当に心からの信心を持っていた信者の話であって、外面だけの知識を集めても、それを信仰するところまで行っていない人は別口になるかという推定も出来ますけどね。

そうして、信仰心も無い人、どんな神をも信ぜず、宗教をも否定した人は、そうした信仰者の集団には当然入ることが出来ないと思われるので、あの世に自分の住む場所が有ったとしても、それはかなりこれらの霊団とは離れた、距離のある立ち位置になるだろうこと、容易に想像がつく、というものです。裏の世界で隔絶されたところの住人になるとか、地獄に堕ちて迷いの中に堕ちるかは、その人の心境次第だと思いますけれどね。

 

 

死はそれ自体、全然怖ろしいものではない。願わしくないものでさえもない。従って、死をひどく怖れているような人は、たしかにまだ人生の正しい道に立ってはいないのだ。怖ろしいのは、老年になってから、自分の生涯を回顧して、それが全然失敗であり無益だったことを 見出すこと、あるいは、大きな罪が積み重なっていて、 赦しがあたえられていないことを発見することだけである。

 

 

死は、怖ろしいモノではない、とヒルティは明言しています。

 

死をひどく怖れているような人は、正しい人生観をまだ身に着けていないから、だから恐怖におびえることになってしまっているのだ、という洞察も加えています。

死んでもなお、魂は同じ個性として存続し、私たちは決してその個性を失うことなく、あの世での生活に移行するだけ。

そうした霊的人生観、転生輪廻の真実をすでに知っている人は、決して自らの死を恐怖することはないだろうし、恐れることなどなく、あの世へと旅立っていけるでしょう。

あの世の存在を信じてもおらず、魂の不滅も知らない人は、自分がこの死によって全てを失う、自分自身でさえも消えてしまう、という未来を前にして、死に近づくほど恐怖することになるのでしょう。

もし、そのような消滅こそが死の正体ならば、確かに人は、死を恐れて当然だと思いますが、それは真実の人生の仕組みではないのでね。恐れる方が、認識不足なだけ、という話なのだと思います。

毒杯をあおって死を目前にしたソクラテスは、あの世へ帰ることを待ち遠しいくらいに思っていて、そこに待っている幸福、そしてその幸福への希望によって、心は平安そのものの境地にあったのでした。これこそが、本当の人生観を知った人の到達しうる、泰然自若の境地なのだと思います。生の意味も知り、死の意味をも悟った人の境地ですね。ここを見習わないといけない。なぜソクラテスはそのような最期を迎えられたのか、と。

 

ヒルティは、怖れるべきは、死そのもの、ではなくて、自分のそれまでの人生がまったくの失敗であり、無益な生き方をしてきてしまったと、それを最後の最後の頃にようやく気付くといった、そうした人生そのものの悔いですね。この衝撃の方が遥かに怖ろしいことである、と言っています。

要するにそれは、そんな晩年に至るまで、自分の生き方の間違いに気づかずに、間違えた生き方を平然と生きてきたことに、今さら気づくということであり、だとしたら、もはや取り戻せない過去の数十年の時間の喪失に、愕然としないのはおかしいくらいのものですから。もっと早く気づかないといけなかったんですよね、本当は。それを手遅れになってから気づいたのでは遅すぎる。そこからのやり直しと反省は大変です。来世への持越しになってしまうのだから。

 

それからまた、実は自分は魂において、大きな罪を犯していた、罪を積み重ねてきてしまっていたことに、最後の最後になって気づく、とか。

罪だなんて思いもしないで好き勝手に生きてしまっていたのだけれど、これは宗教的な教えを深く知って自分を厳しく見つめれば、実は心の罪、魂が犯している罪というのは、たくさん有ったのだ、ということ。宗教的な理解が深まれば深まるほど、自分が気づかずに犯してきた罪、やるべきことをやってこなかった怠慢の罪、為した罪だけでなく為さざる罪をも数えてゆけば、それこそ積み重ねてきた罪の何と多いことか。

そんな自分であっては、神の赦しを得られようはずもない、実際にも、そんな甘い赦しは霊的にも与えられはしない、というのが霊界の厳粛さ、霊的世界の真実ですからね。

さんざん好き勝手に生きて、神仏を無視して、他者へのいたわりもなく、エゴイスティックに生きた人間が、ちょっとの改心で許されるほど甘くは無いので、実際、赦されるような自分でないことに気づく、ということは起こりますからね。

真っ逆さまに地獄へ堕ちる人は言うまでもなく、死後の人生回想拝聴会にて、人々の前で自分の人生をチェックされたら、そのあまりのエゴ人生に愕然として、みずから地獄へ堕ちて修行します、という選択をせざるを得なくなる人もいるそうですしね。

 

だから、死を怖れるのではなく、死を間近に控えて、それまで自分自身の生き方を、反省もせずに、好き勝手に生きてしまって、しかもそこに山ほどの罪があったのだということを、最後の最後に気づくことの方が、ずっと怖ろしいことだ、魂に赦しが与えられないことに気づくことの方が、はるかに怖れるべきことではないか、とヒルティは言っているわけですね。

 

私は生命が来世まで続くと確信しているが、それがどんな形で続くものなのか、私にはやはり分からない。ただその存続の形式は、現世の生活の最も純粋な瞬間に似ているだろうし、全然別の精神的状態へ直接飛躍するものでないことは確かだろう。それは一種の継続と考えられる。つまり各人は、現世でそれに対して円熟をとげるようになったものだけを受けることができるのである。だから、現世と来世の差異は、一般に考えられているよりか、おそらくは少ないであろう。

 

 

ヒルティ自身は、神智学のことも知っていたので、いろいろと霊界とは何かという話は知識的には知っていたはずです。

しかし、幸福の科学で教わるような、明確な天国・地獄観は知ることが出来なかったのは間違いないでしょう。

それでもヒルティは、来世の存在を確信していますね。自分の魂が死後も同じ個性を持って存続することを確信していた。

幸福の科学では、ヒルティの霊が通信を送ってきて語っているヒルティの霊言があります。

 

 

ヒルティは、各人が、現世のこの人生において、深く習熟したもの、魂の素養として獲得したものに応じた世界に帰るのだろう、といったことを推定し、ここで述べているのだと思います。

 

そういう意味で、各人は、自分自身の心に応じた世界へ帰るのであって、自分がそこへ入る資格も無い、まだ自分の魂の悟りとして掴んでいないような高次の世界には入れないだろうし、まっとうな心の持ち主が暗い世界に堕ちることなどはないだろう、と述べているんですよね。

 

その意味では、地上での人生と、その人が来世でおくることになる人生には、一般に想像されていたのとは違って、実はそれほどの隔たりはないだろう、ともヒルティは推定していますね。

 

心の継続性、その心に相応しい世界へ帰るだけ、そこで生き続けるところにあの世での生があるのだとしたら、現世と来世の差異は思っているほどの懸隔は無い。それは基本的に言って、どういつのもの、心の状態という意味では同一の世界へ移行するだけのこと、という意味に解して良いのだと思います。

 

来世ということを考えて初めて、この問題と謎にみちた現世の生活にも、筋の通った解決があたえられることになる。従ってひとたびわれわれが来世における生命の継続ということを固く信ずるようになれば、たかが生存の一部分にすぎないこの現世の短い期間中の快楽や苦痛が、少しばかり多かろうと少なかろうと、そんなことは直ぐにどうでもよいことになるのだ。そして以前には大切であった多くの事どもが、抜け殻 のようにわれわれから落ち去って行くのだ。

 

 

あの世とは何であるか。あの世とこの世の関係を知ることによって初めて、この地上における、肉体に宿った人生の意味がようやくにして解かってくる。

一見、不合理であったり、不公平であったり、不可解で謎だらけに見えていた各人の人生が、あの世とこの世の因果関係を知ることによって、解き明かされてゆく。なぜ、そのような人生になったのか、そうした人生を生きた意味は何であったのか、その理由がわかってくるのだ、ということ。

 

宗教的なる人生観、霊的人生観を獲得することの大切さですね。これを知って生きることこそが大切なのだ、ということを、ヒルティは言っているのだと思います。

 

神を信じ、人は死んでも死なない、魂として永遠の生命を持っていることを本当に信じられたなら、この世の人生などは、たかだか一時期の仮の宿りの生に過ぎないと思えてきて、そこでの快楽や苦痛といった経験がどうこうなどということに、執われる気持ちも薄れてゆくというもの。この世の人生が全てだと思って埋没しきっているから、その時間軸に執われ、さまざまな物的なる事どもに執着し、迷いの人生をおくることになってしまっているのだが、

 

ヒルティは、そうした迷いの生存の元となる、さまざまな執着の対象は、まるで抜け殻が身体から離れて落ちてゆくように、魂から離れて執われの気持ちの無い、平静なる心を持つことが出来るのだ、とここで教えてくれているのだと思います。