憂いについて、憂いの意味、憂いからの脱却 by ヒルティ | LEO幸福人生のすすめ

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カール・ヒルティ『幸福論』を読んでの、感想および考察のつづき。

憂いについて、憂いごとについて、それがいったい何の意味を持つのか、人が生きていく上で悩み、傷つき、悲しみ、つらく感じることどもを指して、憂いという言葉でヒルティは述べているのだと思いますが、この憂いとはいったい何であるのか。人はなぜ憂いの中に置かれるのか。

その重要な意義は3つある、とヒルティは述べています。
いったい、その3つの意義とは何でしょうか。

 

第一の理由は、 傲慢 軽薄にならないために、である。


傲慢な心を持たないようにするため。傲慢という精神状態に陥らないようにするため。

人は何の悲しみも苦しみもなく、順風満帆で自分の好き放題に生きて大丈夫、などという状態に置かれると、容易に慢心して、傲慢な考え方に陥ってしまうのでしょう。

転生輪廻の具体例でもこういった話がありましたが、王侯貴族に生まれて、経済的になんの心配もないような境涯に置かれると、王侯貴族としての贅沢な暮らしが当たり前になってしまって、下々の気持ちがわからなくなるのが、凡人の魂の常だといいますね。
こういう転生のときでも、施しの人生を送れたらいいのですが、自分が恵まれた状態に置かれて、他の人のために尽くせるような人間になれるかといったら、これが言うほど易しくはない。当たり前になってしまって、しかも当たり前と思う気持ちから派生するかの如く、傲慢な気持ちや、軽薄なる人生観というものも生まれてきかねない。そういう危険があるんでしょうね。

だからこそ、天使は生まれ変わる時に、厳しい家庭環境などを選んで生まれてくる、ということが多いのだと思いますしね。それは傲慢とならないため、軽薄な人間にならないため、若い頃に厳しい人生体験を経ることで、自身が傲慢となったり軽薄になったりする危険を回避する。そうした本来の使命を果たすために、まっとうなる魂をみずからの内にしっかり養いたいと、そういう意味があるのだと思います。

一つ目。傲慢さと軽薄さを避けるため、そのために、人生の悲しさや苦しみといった、憂うべきことを体験する意義がある。

 

 

 

第二は、他人に対して同情の心を持つことができるために、である。あまりに裕福で普通の心配事のないような人はとかく 利己主義者 になる。こういう連中は、心配事で顔も 蒼 ざめているような人を見ても、もはや同情もせず、何か不当な存在、自分たちののんびりした快適さを邪魔するものぐらいにしか感ぜず、それどころか、かえって心からそういう人たちを憎むようなことにもなりかねないのである。


第一のところの解説で書いたこととも連動することになりますが、あまりに裕福で、ふつうの人が心配するようなことから解放されてしまうと、ふつうの人の悩みがわからなくなりますよね。同情の気持ちもないくらいになってしまう。
そんな苦労は凡人の悩みであって自分とは関係がない、他人事にすぎないと。そういう意味で、他人の悩みや苦しみがわからない、他人事にしか感じない冷たい人間になる、利己主義になる、ということ。
その危険性があるのだ、という点ですね。これをヒルティは指摘している。

そんな下々の者の苦しみなどは、当人だけが考えればいいことであって、自分のような身分が上のもの、お金も有り余ってなんの心配もない、たいていのことは金で解決できてしまう、なんていう人生観に陥ってしまえば、それこそ自分がこのまま豊かな暮らしが出来ればいいや、ということしか考えなくなって、それを邪魔するような下々の者の訴えなど見たくもない、そんなものが視界に入るだけでも不愉快である、といった自己中な貴族のようになりかねません。

といった注意をヒルティは第2点にあげています。

こういう過てる精神状態に陥らないために、その真逆の心をこそ身に着けることこそが大切。それがすなわち、他の人に対しての同情心を持つこと、他の人に対して優しい気持ちを持ち、慈しむ気持ちを持ち、他の人に手を差し伸べたり、助けることが当然だと思えるような、そうした愛他利他の精神をこそ自らのうちに養いたい。
そういう気持ちを身に着けるためにこそ、自分自身の人生において、憂うべきこと、自分も他の人と同じような悩み・苦しみ・悲しみを体験してこそ、他の人の気持ちがわかるようになるのだ、ということ。
だからこそ、人間として同じような人生体験、憂うべきことをさまざまに体験して生きることに、意義があるのだ、ということですね。

 

 

 

 

 

 

第三の理由として、憂いこそ、われわれに神を信じて、その助けを求めることを力強く教えてくれるからである。なぜなら、われわれの願いを聞きいれて、その結果われわれを憂いから解放してくださることこそ、神の存在についての唯一の確証であり、キリスト教の真理であることを実際に証拠だてるものであって、キリスト自身もこの実地の証明を各人が試みるように促している


そして第三に、憂いがあるからこそ人は、その憂いからの脱却、救いを求めて、神の名を呼び、神を心から求めて、神を信じることに到達するからである。魂の目ざめを得て、信仰の大切さを知り、神に祈ることの大切さを痛感し、心からの信仰をようやくにして得ることが出来るからである。

憂いがあるからこそ、この三次元世界において、私たちは神の御許にふたたび立ち返らんとする、ということだと思います。
なんの憂いも感じずに、この身このままで人生万々歳、神を求める必要なんてないさ、などと嘯く人生を生きてしまったら、それは信仰に目覚めることのなかった人生ということであって、人生のレベルとしては決して深みのある人生とは言えないのでしょう。
苦しいことがあったとしても、苦しみの方が多いように感じてしまう人生だったとしても、そのなかで神への思いに目覚めることが出来たなら、その人はもっとも大切なことに気づいたのであって、それこそが真実の目覚めであり、素晴らしい人生の証だと私は思いますね。

 

 

 

 

 

 

信仰によれば憂いを除くことができると完全に確信がもてるようになるには、もとより身をもって経験する以外に手はない。


憂いを体験することで、信仰に目覚めることが出来る。

信仰に真の意味で目覚めた時には、それまでの憂いを取り除くことが出来る。そういう効能が信仰にはある。

しかして、このことが解かるためには、自分で実体験するしかない。自分自身が身をもって体験することで、信仰による憂いからの解放というものがどういうものであるのか、魂で悟るしかない。

憂うべき課題というのは、さまざまに存在するので、たとえ信仰に目覚めたとしても、あらゆる憂いからすべて解放される、これ一発で全部問題は解決、というわけにはいかないのも当然ですね。
その時々に、新たなテーマに対して、信仰心でもってどう生きるべきか、対処すべきかをまた考える必要がある、新たな学びを重ねる必要があるので、違ったかたちの憂いにまた出会わざるを得ない、というのもまた致し方のないことでしょう。

これは悟後の修行というテーマだと思いますが、一つの憂いから脱却できたとしても、また新たなる課題、憂うべきことというのに出会うことでしょう。

けれどヒルティは、それこそが人生の真実なのでしょうがないよ、ということを次のような言葉で述べてくれています。

 

 

 

 

 

人の生涯に憂いの伴わないことはありえない。憂いと共にありながら、それどころか往々いくたの憂いをもちながら、しかも憂いなしに生活して行くこと、これこそわれわれの修得すべき生活の技術である。


憂いと付き合うのが人生なのだと。しかしてそれに七転八倒するのではなく、その都度、信仰によってクリアし、克服してゆけばよいのだと。
それこそが、信仰と共に生きる人間の強さですね。信仰は、憂いとともに歩む人生の中にあっても、勇気を与えてくれ、生きる力と希望をも与えてくれる。それからまた、心の落ち着きと平安と、そうした豊かなる心の幸福感をも与えてくれるものでしょう。だからこそ、信仰生活は素晴らしい。

世の中には、いや自分は信仰などは必要としていない、そんなものが無くても生きて行けるし、今までもそうして生きてきた、と人がいるでしょう。宗教も信仰も要らないよと。

そういう人の幸福感や幸福論に対して、ヒルティは鋭い指摘と警告を発していますね。

 

 

 

 

幸運の太陽が輝いている間は、彼らは一種の笑うべき、あるいは罪深い宿命論をもって、自分たちの「幸運の星」を信じているだけで、信仰などには見向きもしないのだ。しかしこういう行き方では、ひそかな不安が時々彼らにしのびよってくる。なぜなら、「神に身をゆだねた人の幸福は、ただ一つの支えを要するだけなのに、この俗世的幸福は多くの支えを必要とする」からである。しかも 一旦 彼らが不幸な目にあい、それに対して他人の援助が得られないとなると、あらゆることに迷い出し、現代病たる不眠やたえまのない不安といったいろいろな「神経性疾患」にかかり、数しれない療養所へ送られる仕儀となるのだが、しかもたいがいは何にもならぬのである。


信仰などには見向きもしないで生きている人。
そういう人は、いま現在の自分自身の置かれた状況、環境、人間関係などが、たまたま上手くいっていて、自分にとって良い状態のあいだだけ、そう言えているだけのことなのだ。「幸福の星」とヒルティは表現していますが、たまたま今、幸福の星の元に生きられている時間の下にいるだけ、なのかもしれませんよと。

経済的に安定しているから心配がない、とはいっても、それがすべて失われた時にこの人はどうなることでしょうか。
愛し愛される家族にめぐまれて幸せ、友人関係も豊かでしあわせ、とはいっても、それが失われたこの人はいったいどうなることでしょうか。ある日突如として、事故や病によって、そうしたかけがえのない人の存在がなくなってしまったら、その悲しみにどう耐えるのだろうか。耐えられるのでしょうか。

その他、この世的なる幸福は、それそのものに依存していて、お金の悩みはお金があるかどうかに汲々とせざるを得ないし、人間関係においては、その相手の人自体がどういう人であるかに依存していて、自分の自由にはならないものだし、仕事の問題にしても様々な悩みが個々に存在して、こういった悩みをすべて解決するためには、それらすべての課題に個々いちいち振り回されずにはいられない。振り回されないためには、それらすべての問題を解決するための、あらゆる支えが必要となってしまう。

しかして、神に身をゆだねた人の安心立命というのは、ただ一点、いちばん大本に、神への絶対的信頼、この身を神さまにゆだねて、その信仰のもとに生きる、ということですよね。
人間関係も、仕事も、経済力、その他、さまざまな悩みはあろうとも、大本においては信仰一筋、これが根本の根本で、ここをあやまたずに押さえてしまう、という意味で、信念の強さがそこに生まれますからね。だからこそ強くなれるのだと私は思います。

最後の方で述べられている、現代病たる、不眠、絶え間のない不安、神経性疾患、というのは、ヒルティの時代から100年が過ぎたこの現代でも、いまだ多くの人が罹ってしまっている苦しみでしょう。
こうした苦しみ、病というものは、真の信仰に至れば乗り越えられる悩みにすぎない、とヒルティは言っているんですよね。
信仰を知らない、あるいは知っているつもりであっても、本当の意味での深い信仰にはまだ至れていないところから発生する悩み、苦しみ、憂うべきこと、そうしたものにすぎない。

こうしたものから如何に脱却するのか、クリアできるか、卒業するのか。信仰の力とは何であるのか。みずから自身の心に問うて、信仰による、憂いからの脱却を悟るべし!

ということかと思います。