仏教を学べる有難さ その2 by 渡辺照宏『仏教(岩波新書)』 | LEO幸福人生のすすめ

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近現代における「仏教の再発見」の時系列的な流れ。西洋から見た「仏教の発見」の理解。
 

マルコ・ポーロ以来、探検家の報告によって仏教の存在はヨーロッパに知られていたが、仏教の文献についての研究は十九世紀になってから開始された。


なぜ19世紀になってから研究が始まったのか。それ以前には詳しく知られなかったのか、というと、文献資料が無かったから、ですね。ところがこれが多数見つかった。

20世紀になってから、キリスト教の方でも死海文書の発見があったり、マニ教の失われた経典が発見されたりと、そうした再発見が数多くありました。
エジプトの遺跡の発見などもそうですかね。シュリーマンによるトロヤ遺跡の発掘は19世紀。
19世紀、20世紀には何故か、こうした「失われた過去の精神的遺産、遺跡」の発見が相次いだ。不思議ですねー。

 

 

 

インドでは仏教は十二世紀末ごろまでのあいだにイスラム教徒によって破壊されていた。ただネパールには仏教が存続し、そのサンスクリット語聖典が保存されていたのである。


ネパールには、サンスクリット原典の仏典が遺っていた。これが発見された、とあります。
インドの寺院はイスラム教徒の侵入によって破壊され、多くの貴重なる仏教遺産が消えてしまったかもしれないけれども、お釈迦様の生誕の地であるネパールには、原典が温存されていて、これが見つかった。

 

 

 

 

 

サンスクリット語原典は中国本土では未だ一片も発見されていないが、わが国には少量ながらこの他にも『涅槃経』が高野山で保存されていたのである。


このサンスクリット語による仏典は、中国では見つかっていない、とあります。これは中国というのは外国由来の書籍を輸入しても、これを中国語に翻訳した時点で、オリジナルはもう不要なので破棄、という行動を取るからで、だから原典がまったく残っていないそうなんですね。
ところが日本の方はわずかに運び込まれたサンスクリット文献を、今に至るも大事に大事に僧院の奥深くにしまって保存してあるわけです。中国経由で来たはずなのに、中国にはオリジナル文献は残っておらず、しかし日本には残っている。原典を貴ぶ精神の違いが、民族の精神の違いとして現れているのでしょうか。

 

 

 

 

インド仏教がヨーロッパで研究されるようになった歴史はまだ日が浅い。はじめインドの統治に必要な法律文書の調査を動機として、十八世紀末ごろから学者たちが古代文献を研究するためにサンスクリット語を学ぶようになった。一方ではこの言語が古代ヨーロッパのギリシア語、ラテン語、ゲルマン語その他と類縁関係を持つことの発見から印欧語比較言語学が樹立され、優秀な学者の関心を呼んだ。他方ではバラモンによって代表される過去三千年の宗教、哲学、文学などの人文科学や自然科学の質、量の偉大さに驚嘆した。


こうしたサンスクリット原典が入手されたので、19世紀、20世紀になると、なぜかヨーロッパの方で、仏教の研究が盛んになった。渡辺照宏さんは、サンスクリットやパーリ原典の研究は、東洋よりヨーロッパの方が進んでいる、と述べていたと思います。

インドはイギリスに植民地にされた、という負の歴史が述べられることが多いですが、文化遺産の発見としては、イギリスがインドの支配者だったために、その統治上必要なためにサンスクリット語の研究がイギリス人によってなされ、だからサンスクリット原典の英訳による仏典研究も、こうした流れの中で始まってゆくんですよね。
こうした経緯があって、ヨーロッパにインド経由の仏教思想というのが知られるようになったわけです。ショーペンハウエルやヘーゲルなど19世紀の哲学者たちが、仏教について言及するようになったのは、ヨーロッパにおいて仏典の翻訳書が読める時代になっていたからで、ルドルフ・シュタイナーもこういう流れの中にあって、仏教に関しての知識を得たのだと思われます。ブラヴァツキー夫人は後にインドに実際にわたり、その神智学の教えに仏教の考えを相当程度に取り込んでいったはずですね。

 

 

 

 

仏教はインド本土にはもはや存在していなかったが、これも英国による統治の必要からセイロンの仏教がまず注目され、パーリ語聖典が組織的に研究されることになった。  
それとは別に十八世紀ごろから宣教師や探検家によってチベットの事情が知られるようになり、十九世紀初頭からチベット語の仏教文献が注目された。  
また十九世紀半ばごろからネパールに現存するサンスクリット語の仏教文献写本がヨーロッパ人に知られ、その内容はチベット語訳と同じ系統に属することが明らかにされた。この系統はセイロン等東南アジアに伝えられていた〝南方仏教〟と区別して〝北方仏教〟とよばれることになった。


わたしたち幸福の科学信者は、仏教がインドからは無くなってしまったと聞くと、なぜか悲しい思いがして仕方がありませんが、貴重なる原典資料はネパールだけでなく、インドのそばに浮かぶセイロン島ことスリランカにも見つかるわけです。こちらはパーリ語で著された初期経典の数々。

それからまたチベットの方でもチベット語訳された仏典が多数見つかるんですよね。サンスクリット語訳と同系統の内容を持つ北方仏教、北伝の仏教と、セイロンなどに伝わる南方仏教、南伝のパーリ語仏典が見つかる。

日本人の知る仏教は、中国経由で入ってきた仏教なので、漢字のみで著された中国語版、漢訳仏典がほとんどであったのが、いきなりサンスクリット語版やチベット語版、パーリ語版などの多岐にわたる仏典資料が見つかった。これによって時代をさかのぼっての仏教研究、仏教考察が進むことになるわけです。本来の仏教はどういう教えであったのか、とか、中国で生まれた独自の考え方、その他、後代の広がりや変形と、本来の純粋なる形の考察、などといった研究ですね。

 

 

 

 

十九世紀になると中国に駐在した官吏、軍人、宣教師などで漢文を学ぶ者が多く、英国、フランス、ロシア、オランダ、ドイツなどから学者が出た。このころ盛んになったネパール=チベットの仏教の研究に呼応して漢文の仏教資料が注目され、研究されるようになった。


ヨーロッパの各国に、仏教を研究する学者が多数輩出した。前に、シュタイナーの系譜につらなるヘルマン・ベックという学者の解説する『仏教(岩波文庫)』を記事で紹介しましたが、こういう研究者による優れた論考が数多く出たんですね。ちなみにこの本は、翻訳しているのは渡辺照宏さんその人です。
( → ヘルマン・ベックの『仏教』を読む 
    ヘルマン・ベック『仏教』 ~ 昨日のつづき

 

 

 

 

ロシアの仏教研究は現在に至るまでサンスクリット語原典をチベット語訳や漢訳と対比させるという学風を存している。


ロシアでも仏教の研究が行われている、と渡辺さんは述べています。1956年初版の当時ですね。

幸福の科学的には、ロシアの文豪ドストエフスキーとトルストイは、マニ教のマニ、キリスト教のイエス様の分身による再来とのことであり、ブラヴァツキー夫人もロシアに出たことを思うと、ロシアという存在に何か重要な使命があるのでは? ということを想像させられます。

プーチン大統領はローマの初代皇帝アウグストゥスの転生だとも言われており、ちなみにイエス様がユダヤに生まれた時のローマ皇帝がこのアウグストゥスですからね。

 

 

 

 

英国では漢訳大蔵経を入手しようと清国に申し入れたが、外交事情からそれが実現しなかった。明治新政府の特使岩倉具視が英国政府の請を容れ、一八七三年帰国して黄檗版の漢訳大蔵経を寄贈した。これによってヨーロッパにおける漢文資料による仏教研究が軌道に乗ったのである。


当時のイギリスは、自分らが入手したサンスクリット仏典、パーリ仏典と比較考証するために、漢訳大蔵経を入手しようとした、とあります。その研究熱心さ、探求姿勢の真剣さ、真面目さに感心します。

インドから見つかった古代文書というと、ムー文明の記録が記されていたとチャーチワードが述べていた『ナーカル文書』のことも思い出します。インドの寺院の奥深くにしまわれていた古代から伝わるムーの記録を読んだと。遥かなる古代に栄えた偉大なるムー文明、大王ラ・ムー、ムーの教えなどが記述されている文書をチャーチワードは読んだ、と主張しましたが、オリジナル原典は失われたという話もあります。

( → 英国人チャーチワードによる、ムー大陸のおはなし

興味深いですね。太古の資料が再発見される、というのにも、見つかるべくして見つかる、その時が迫ってきているので、そうした資料群が大挙して見つかる、そうした天上界の計画がきっとあるに違いない。わたしはそんな風に感じますね。