自分本位の人と、他人の立場になって考えられる人の違い | LEO幸福人生のすすめ

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自分本位の自己中人間を見ていると、どうしてそこまで自分勝手で自己中心の考え方しか出来ないのだろう?  相手の立場に立って考えることが出来ないのだろう?
そのあまりの自己中ぶりに呆れてしまうほどに、自分勝手で自己中な人間が世の中にはときどきいるものだ。ときどきというより、結構な数がいるかもしれない。

自分本位の思考をする人というのは、周りの人間や、相手の立場をまるで斟酌しない、というか、そもそも他人がどのように感じているか、考えているか、まったく想像すら出来ていないようだし、感情移入して、相手の立場に立って考える、感じる、ということがそもそもまったく出来ていないらしい。

他人の気持ちがわからないから、自己本位の言動で突っ走って平然としていられるのだろうし、自分本位の発想ばかりで生きているから、どこまで行っても、他人の気持ちがわからない、いつまで経っても堂々巡りで、相手の立場になって考えてみる、ということが出来ないのか。
この両者は相関関係があって、相手の立場に立つ努力をすることで、自己本位の生き方から離れてゆけるし、自己本位の気持ちを捨てれば捨てるほどに、他の人の立場に立って考えることが出来るようになるのではないだろうか。

他人の気持ちになって考えてみよう、という努力の姿勢をまず持つことが大切で、そうした視点で物事を見てみよう、今までは自分本位でばかり考えていたけれど、今の場合、妻はどのように考えているのだろうか、子供たちはどのように感じているのだろうか? 部下は何を悩んでいるのだろうか? 友人の誰それはどういった気持ちでいるのだろうか? ということを想像してみる、思いを馳せてみる。

そういう努力を続けるなかで、自分本位の考え方を徐々に卒業してゆくことが大事だし、そうした他者目線で物事を見る訓練を続けるうちに、ある程度そうした見方が出来るようになってくる、努力した分だけそうした視点が身についてくる、ものなのではないだろうか?

まったくそうした努力や工夫をすることもなく、ただ生れ落ちて後、本能が命ずるがごとく、自分が感じ、自分がこう思う、という視点のみで突っ走るばかりの人生を生きているだけであったら、それがいつの間にやら、他の人の気持ちが手に取るようにわかるようになった、他の人の立場でも見ることが出来るようになった、なんてことには金輪際なってゆかないだろうに違いない。

相手の立場に立つ、他の人の目線でも考えてみる、感じられるように感情移入してみる、そのための努力をしてゆく、共感的な態度を取る。わかろうという気持ちをまずは持つ、寄り添う気持ち、理解しようという気持ち、そういうスタンスを「努力して」取って、それを続けてゆくことが大切なのではないだろうか?

自分本位の立場から離れて、それを出来る限り捨てて、相手の立場になって考えてみよう、相手の気持ちを察してみよう、そうした意志行動の繰り返しによって、徐々に、他の人の立場になっても考えられる、そうした考え方、感じ方がわかるようになってくる。
ということなのではないだろうか、と最近では思ったりします。

これは天からいきなり振ってきたり、棚からぼた餅で得られるような能力ではないのだ、ということ。

共感能力といい、相手の立場に立って考えられる力、感じる能力、といったものは、これもまた、努力精進によって初めて得られるものなのではないだろうか? そんな風に思います。

それは努力なくして、ただ自分一個の生命を、神に与えられた自分の個性から見える目線のみを唯一としたら、自己保存、自己保身、自己防衛、自我我欲、自分の感じ方・考え方しかわからずに、その限定された個我意識で生きるのは当然だと思います。

けれども、そこに留まっていていいわけがありません。宇宙の進化や生命の成長発展、魂修業という視点から見たら、これを何処かで超えてゆかないといけないのも、必然の道ではないかとも思いますしね。

人間が、独りでは生きられない存在であること。社会的動物と言われ、他の人たちとの助け合いのなかで生きるべき存在である、との神の命のもとで生かされている存在であるのなら、

一個の個我に過ぎないようでいて、そうではなく、自分の我を離れて、相手の我をも理解しつつ、生きられる存在になること。

自分がしてほしいと願うことを、他の人のために為せ。
自分がしてほしくないようなことは、他人にもしてはいけない。

これは、自分も他人も、対等の立場であって、同等の価値を持つ生命だという立場に立った時には、自分だけを特別視して、他の人はどうでもいい、などというエゴ判断は許されないわけですしね。

ゴールデンルール、黄金律、宇宙の理法であるのなら、自分に適用するルールは、他の人にも同等に適用させるという、そうした判断が出来ていなければ、この人の判断能力が公正であるとは言えない。
自分を依怙贔屓して甘やかし、他人には厳しい裁定を下す、というのは、真の意味での法則を理解している人間の行いではありません。それは、自分に都合よく法則を利用し、相手を裁く際には使い方を変えている、エゴイスティックな人間の悪用でしかないでしょう。

自分が、その相手の立場に立った時に、どう感じるのか、考えるであろうか、ということを想像し、感じることが出来る人にして初めて、他の人の立場に立った物言いが出来るのだと思います。

厳しい批判や説教であったとしても、それをもし自分が言われる側の立場に立ったとしても、その批判や説教を、なるほど至極もっともだ、と納得し得るような、そうした普遍的な内容を語っているかどうか。
正当な批判というのは、これを満たしているような内容の批判、ということであろうし、内容自体にそれだけの客観性、普遍妥当性、説得性が無いようなものは、正当であると言える保証はどこにもないと思います。

真に正当性がある、普遍妥当性がある、というのなら、それはゴールデンルールとして、黄金律として、自分が守るのは当然として、他の人間もすべて守るべき、そうした宇宙法則であるはずであって、だからこそそれは、たとえば自分にとって厳しい指摘やカルマだったとしても、反省すべきは反省し、あらためるべき欠点は、あくまでも欠点であって改めるべき、宇宙の理法がそう命じるのなら、そうであるはずですね。
神に対する反逆罪、それは私が犯したとしても許されないし、他の人が犯したとしても許されない、人間としての破廉恥罪という意味で、これはゴールデンルールとして普遍妥当性があると私は考えます。それを認めるか認めないかは、各人の認識レベルの問題になるので、現在の人類の多数決がどう出るか、などということは関係がありません。宇宙の理法はかくあり、すでにかくありのはずであって、人間が認める認めないの問題ではないのだから。

人の生きる道、こうあるべきだ、かくあるべし、あるいは信仰とはこういうものである、かくあるべし、といった場合に、そのニュアンスは宗教の種類によって微妙に違うところがあるにしても、神に対する敬虔さ、であるとか、謙虚な気持ちを持つことが大切である、だとか、神を信頼して自らの我欲は引っ込める捨てるべき、というような項目は、たいていの宗教に共通するものでしょう。そういうものこそは普遍妥当的に、永遠の真理、原初の昔より在るゴールデンルールに含まれる内容だと思うのです。

この宇宙の中で、すべての魂の尊厳は対等である、平等な立場にある、ということがどこまで理解できるかどうか。
自分の立場のみを優先するのではなく、他の人も同じくらいに重視して、公平に自と他を同じ秤で測ることが出来るようになれるか。
相手の立場に立って考えられる度合いが進めば進むほど、自分自身の客観的なる姿がそれだけわかってくるに違いない。
自分を特別視しているあいだは、増長して自分のみを大事にしていて、また他の人のことはまるで理解できていないに違いない。
他の人の立場になって考えられる、というのは、あらゆる人の視点で物事を見られるようになる、という最終段階を想像してみればわかりますが、それはまさに神の如き視点、神さまはそのように各人を公平に見ているに違いないということでもって、私たちはあくまでも究極のその目標を目指して、壮大なる永遠の転生をおくっているのかもしれないなー。などと思いつつ。