神への全き信頼を持つ時に、災いをさえ、心静かに受け取るのかもしれない | LEO幸福人生のすすめ

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旧約聖書、新改訳より『ヨブ記』の引用。つづき。
 

ヨブはこのようになっても 罪 を 犯さず、神に 愚痴 をこぼさなかった。


ヨブは飼っていた家畜を失い、使用人たちを殺されて、資産を奪われ、そのうえ息子や娘たちまで災害で失ってしまったにも関わらず、

主が与えてくれたのだから、主のもとに取り去られても、何の問題も無いと言わんばかりの気持ちで、主はほむべきかな、と言ったのでした。

これを受けて神=主はサタンに話しかける。

 

 

主 はサタンに 仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を 留めたか。彼のように 潔白 で正しく、神を 恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の 誠実 を 堅く 保っている。おまえは、わたしをそそのかして、 何 の理由もないのに彼を 滅ぼそうとしたが。」


主なる神は、みずからの下僕であるヨブに、サタンがちょっかいを出して苦難を与えたものの、ヨブは心揺れず潔白であり、正しい心を堅持し、いまでも神をおそれている、悪からも遠ざかっている、ヨブは誠実のままである、とサタンに向かって話しかけています。
ヨブは苦難に遭うような、何の理由もないのに、おまえが彼を滅ぼそうとした、と言っています。

この文脈からして、ヨブを襲った災害は、サタンの仕業と読んだ方がいいと思うので、そう私は解釈しますが、ヨブ自身は、主が与えたのだから主が取るのも主の御心のままである、といって、災害を主によって与えられたものと考えているのでしょう。
だからのちになって、それを天罰と言い、主が理由もなく自分を苦しめている、かのように解釈して、主なる神を呪った、という経緯に至ったのかもしれません。

それはそれとして、
ヨブは、自分の息子や娘たち、それから家畜その他の財産をすべて失っても、心が動揺していない。
自分のものなど本来なに一つないのである、すべては神から一時借りているだけの借り物なのだ、という宗教的な考え方がありますが、まさにヨブはそのような受け止め方をして、それゆえ、今まで持っていたものが失われても、それに対して腹を立てることがない。

私は裸で母の胎から出てきた。裸でまたかしこに帰るだけのことだ。

という心境は、この世的なるモノに執われることのない無執着の心境で、このような心の持ち主に、サタンや悪霊は憑依することは出来ないでしょう。
だからこそ、ヨブ自身ではなく、周囲のものにちょっかいを出して、例えば強盗を唆してヨブ家を襲わせ、家畜を奪い、使用人を殺させるとか、あるいは災害を起こす力が悪魔にあるかどうかは定かではありませんが、これもヨブそのものへの直接攻撃とは言えませんしね。

執われの無い心には、直接、悪魔が惑わすことは出来ない。

そこでサタンは、主なる神に次のように言います。

 

 

 

 

サタンは 主 に答えて言った。「皮の代わりには皮をもってします。人は自分のいのちの代わりには、すべての持ち物を 与えるものです。
しかし、今あなたの手を 伸べ、彼の 骨 と 肉 とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに 違いありません。」
主 はサタンに 仰せられた。「では、彼をおまえの手に 任せる。ただ彼のいのちには 触れるな。」


人は、自分のいのちさえ守られるのなら、他の物は差し出して平気なものなのです。といって、それは家族の命でも、という意味をも含んで、自分以外のものを失っても平気といって、人間のエゴを語って、さらに神に問答を仕掛けています。

あなたが、「彼の身に手を伸ばしてはいけない」と条件をつけたので、わたしは彼の身体には手を出せませんでした。もしあなたが、彼の骨と肉を打ったら、肉体に損害を与え、苦しみを与えたなら、彼とても、あなた=神=主を、呪うことでしょう。

こう自分の主張を語って、ヨブが落ちないのは、神がヨブを保護しているからだ、その保護を外したらわかりませんよ、と挑発しているんですね。

これに対して神は、ではそれを為してみよ、とサタンに返事をしています。

骨と肉を打つ、肉体の苦しみを与えたら、どうなるであろうか。
しかし神はここでも、しかし彼のいのち=魂、心には触れるな、と条件をつけています。

 

 

 

 

 

サタンは主の前から出て行き、ヨブの足の 裏 から頭の 頂 まで、 悪性 の 腫物 で彼を打った。


この文面を読んでも、ヨブに恐るべき病を送り込んでいるのは、サタンですね。サタンによって、悪性の腫瘍がヨブの身に臨んでいる、ようにしか読めません。

神はそれを許容したではないか、という解釈はありえても、直接的に危害を加えているのは、やはりサタンと見るべきでしょう。サタン、悪魔、悪霊による苦しみ。

そう捉えて、以後の展開を読んでいきたいと思います。

ヨブはこれでもまだ、神を呪わないんですよね。ヨブはまだ信仰を捨てない、神を裏切らない、罵らない。ものすごい篤い信仰心の持ち主ではないか、と言わざるを得ません。

 

 

 

 

 

 

すると彼の 妻 が彼に言った。「それでもなお、あなたは自分の 誠実 を 堅く 保つのですか。神をのろって死になさい。」 
しかし、彼は彼女に言った。「あなたは 愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」ヨブはこのようになっても、 罪 を 犯すようなことを口にしなかった。


ヨブの妻の方が先に、そこまでのひどい状態になっても、まだあなたは神をうやまって、ほめたたえるのですか。神を呪って死んだらいいではないか! とヨブの義心に呆れかえっているようです。

その妻に対してヨブは、おまえは何という愚かな女のようなことを言うのか。神が幸いを与えてくれたのだから、災いを送ってきたとしても、それを避けてはならない、災いをも受けるのが信仰ではないか、と言い聞かせています。

これはどうなのか。災いを与えているのは神なのか。直接やっているのはサタンだとしても、ヨブはそのことを知らないし、サタンに許可を与えたのが神ならば、神に最終責任があるではないか。だとしたら、神が災いを与えたのか? といった疑問が生じかねない部分は確かにあります。

ここに嵌りすぎる人は屁理屈屋の可能性が高いですね。

悪は神から出たのか、悪も神の一部なのか、という議論にこだわる可能性の高い人ですね。そして人間心であれこれ疑問に思ったあげく、カラマーゾフの兄弟のイワンのように、無神論、不信仰の人間になったのだとしたら、それこそ、前記事で冒頭にかかげた「永遠の法」よりの引用文が、その人にそのまま当てはまることになるでしょう。

「ヨブよ、おまえは神の心を裁くことができるほどに賢明であったのか。もっと 謙虚 になりなさい。おまえは神の心がほんとうに分かっているのか」

形而上学的な疑問ではありますが、悪は神の一部なのか、神がすべてのすべてなら、悪もまた神の一部なのか、悪を神は何故放置しているのか、などなど、
あーでもない、こーでもない、と深遠な議論をしている「つもりの」自分に酔ってしまって、人としての基本生活がなおざりになっている、他の人に優しく生きること、愛を与えて生きること、笑顔で生き、素直な心で、さわやかに生きよう、といった基本的な善の生活を忘れ果てて、なにが、神から悪が生まれたのか云々でしょうか。
と、私は思いますけどね。100万年早いんですよ、自分の魂修業もろくに実践していないで、神と悪の関係などの答えを見出せると思いあがっていることが既に慢心であり、お前ごときに神の御心がわかるはずがないではないか。人間としての謙虚さを身に着けてから出直してこい。
というレベルなんじゃないの、という自己反省のが先でしょう。釈尊の無記の譬えはこういう人にこそ当てはまるんですよ。

ということで、ここで再び、前記事で引用した三浦綾子さんによる解説文を再度引用してみましょう。こうあります。

 

 

 

 

 

「われわれは、神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか」  
と答えたのである。わたしたちは、さまざまなことを神に祈り求める。聖書も、さまざまなことを神に祈るようにすすめている。が、わたしたちは、しばしば利己的な、一方的な願いだけに終わりやすい。わたしたちがもし、単に病気のいやし、商売の繁昌、家族の安全だけを祈って、神のがわからのすすめを斥けるとしたら、それは勝手な話であり、醜い姿といわなければならない。神の前に手を合わすには、もっと謙遜 で、無私で、清く、澄んでいなければならない。 「幸いだけは受ける、が災いは要らない」  
これが、わたしたち人間の、根深い本心ではあるが、まずこうした心を直してもらうように祈るべきであろう。そして、神への全き信頼を持つ時に、災いをさえ、心静かに受け取るのかもしれない。


ここで三浦さんは、ヨブ自身の言葉に準じて、神から幸いを受けるのだから、災いをも受けるべきではないか、というヨブの信仰観を良しとして、みずからの感想を述べています。
(※このくだりは、まだヨブが神を呪う前、神に文句を言う前の時点でのヨブの心境のことです)

浅い信仰観だと、人は、何かをお願いする時にのみ神を頼み、なになにを叶えてください、病を治してください、商売を繁盛させてください、家内安全をお与えください、といった、みずからの幸いを祈ることは、よくする。

しかし、苦難困難が自分に襲いかかって来たときには、途端に不平不満の気持ちに陥り、神への不信をも主張するようになるかもしれません。
順境のときには熱心な信仰者だが、逆境に陥る途端に不信仰の徒になって退転する、とかですね。こういうことですが、

人は、順境の時と、逆境の時の、両方を見るとその人の器がわかる、という言葉も教わっていますが、

順境の時、幸福な時に、主よ、神よ、と感謝の言葉を述べるのは簡単でしょう。しかして、不幸が襲いかかって来たときに、わたしたちは、主よ、神よ、感謝します、生かしてくださっていることを感謝します、とはなかなか言えないものです。

災いを、苦難困難、試練、その他の言葉に置き換えてもいいですが、運命、という言葉で捉えてみたらどうでしょう。

ヘレン・ケラーのことが思い浮かびます。

彼女は幼い時に病におかされ、三重苦の運命に突き落とされました。
しかして、それを神のせいであるといって、神を呪う理由にしたでしょうか? してないですよね。
ヘレン・ケラーは、自らを見舞った運命を、わが運命として抱きしめた、神が与えたもう課題として、その厳しい境涯の中で、光ある人生を生きよ、という課題を与えられたのだと受け止めた。

運命を抱きしめた、ということは、災いを誰のせいといって不平不満を言うのではなくて、神によるのか、悪魔によるのか、なんていうことには関係が無く、

ただ自分はいま、このような状態からスタートするしかない、生きるしかない、それが何故といってあれこれ難しい思考をして悶えるのではなく、その運命を運命として受け入れ、抱きしめたんですよね。

悪は、神から生まれたのか、ならば神にも責任があるのではないか、だとかいって屁理屈を並べて不信仰に陥るような人間であったならば、ヘレン・ケラーと同じ境涯に陥った時に、簡単にみずからの不幸を呪い、神を呪うような人生しかおくれなくなるでしょう。失敗の人生ですね。

屁理屈を並べて、悪とは何か、神のうちに悪はあるのか、無いとしたら神は全能ではないことになる、だとかいう形而上学的問題に入り込んで、したり顔でわかったような顔をして、結論としては神を信じない、不信仰の徒になって生きるだけ、神に責任転嫁するだけに終わったなら、自分の足元をなおざりにして、難しい問題に逃げているだけ、自分の問題を潔く受け止めることから逃げて、神のせいにして自己満足してるだけじゃないの? ということでしかないのでしょう。

それでは駄目なんですよね。

屁理屈を並べてゴチャゴチャ言うような屁理屈人間になるのでは本末転倒と言うしかない。

ヘレン・ケラーは三重苦という重い運命に遭いながらも、その運命を抱きしめて、そこから光ある人生を生きたのですから。

三浦綾子さんは結核におかされ、脊椎カリエスのために寝たきりで13年もベッドに伏した青春時代を生きざるを得ず、しかもそのさなかにあっては、それは治る見込みなど無い運命としか思えなかったんですよね。
そのさなかに信仰を得、洗礼を受け、そして「ヨブ記」や「詩編」、それから当然「福音書」のイエス様のことば、それから使徒たちの手紙などによって、心を救われ、心の支えとなる言葉を数多く見出し、そうして熱心なクリスチャンとして、その生涯を生き切ったのでした。

神が与えた試練なのか、悪魔が与えた災いなのか、そのどちらであるのか、わたしたちに明確に読み解く力がはたしてあるでしょうか。

自分自身で招いた問題に、いつしか悪霊、悪魔の力が働いて、いわば悪霊の憑依のような状態に陥って、人生の不幸に見舞われたのだとしたら、

それは誰が原因で、誰の責任であるのか。
悪霊の責任か、悪魔の責任か。
それとも、悪霊・悪魔に憑依される原因を作った、おのれの心か、おのれの執着、迷い、それが理由であるのか。
それとも、この自分を作ったのは神であり、悪霊や悪魔も元は神の子であり、ならばすべての大本である神に、すべての発生原因、第一原因があるのだとしたら、神とは何なのだ。

みたいな解けもしない問題に入り込んでいって、結局、定かなることは何もわからず、自分自身の問題も当然解けずに、ただ日々を不平不満と恨みつらみで生きる人間を見たら、どう思うか。

情けない不信仰者の姿でしかないのではあるまいか。

と、わたしは思います。

理由は定かにはわからない。前世が原因というスピリチュアルの知識を生半可に持っていたとして、じゃあ、自分が今世出会う難問、人生の苦しみ、解けない悩みに対して、過去世から由来する、その過去世の体験そのものを想い出せるだろうか、因果関係を想い出せるだろうか。
もし思い出せたとして、それでも自己に言い訳をする卑怯な性格であったなら、自己責任の理由はやはり見いだせないままに終わるのではないだろうか。

過去世で出会ったあいつのせいだ、あいつが俺の人生を狂わせたから、今世もまた、このような苦しみにおかれている。
とかいって、責任転嫁の考えをすぐに持つような未熟者であっては、自分の過去世を透視したとしても、何も有益な悟りは見いだせないに違いありません。

今世においても、原因結果の連鎖というものはある。

子供時代の原因があって、大人になっての苦しみがあったとします。
その子供時代の原因を見たときに、自分自身の間違った心がいけなかったのだ、といって、それを修正するための努力をする人と、
そうではなくて、子供時代のあの原因は、親のせいだ、学校の先生のせいだ、社会のせいだ、不遇な境涯のせいだ、なんとかのせいだ、といって、結局、自分の責任、という視点でもって解釈できない人間は、
自分の幼少時代をすべてドラマで再現して見せられたとしても、そこから悟りを得ることは出来ないんじゃないですかね。

何しろ人は、まさに、その人生を、自分の考えと決断、選択でもって生きてきたわけで、その選択の時点では、それでいいのだ、といって決めてきたのは、ほかならぬ自分自身だったはずなので、

誰のせい、あいつのせい、なんとかのせい、なんていって責任転嫁して済むわけがないんですよ。
どのような人生を歩いてきたとしても、それを、自分自身の責任として受け止められるかどうかです。

運命を抱きしめる、というのは、そういうことかと思います。
自分の運命の責任から逃げるのは、卑怯な心の持ち主ですね。
逃げることなく、潔く受け止め、そこから出発する人間こそ、勇気ある魂であり、神から嘉される心の持ち主なのだと思います。

三浦綾子さんは、神の前に手を合すには、

もっと謙遜で、無私で、清く、澄んでなければいけない

と述べています。幸福の科学でも、これらすべては大切な心掛けとして教わっていますね。
謙遜であること、無私なる心、清い心、澄んだ心。
こうした心でもって神さまの方を向くことが大事、祈りの気持ちとはこうした気持ちでなければならないものでしょう。
もしこうした心の状態に程遠い自分であったなら、

この心を治したまえ、磨き給え、それを磨いてゆけるような自分であれるよう、日々わたしをお導きください

そのような気持ちをもって生きるのが、美しい心をもった信仰者ではないのか、とわたしは思います。

こういう気持ちで神さまに祈る心を持った人間であるのなら、順境のときに感謝の祈りをささげるだけでなく、自分が不遇、不幸のときであっても、みずからを深く顧みる自己責任の心を持ちつつ、神に祈るのではないか、神の前で裸の自分となり、この運命をわたしは受け入れます、主よ、どうかわたしをお導きください、わたしはこの運命を抱きしめて生きましょう、主よ、主よ

という祈りの言葉を唱えることが可能となるのではないかと思います。


わたしは自分自身で、実際に霊的な魔境というか、自分が拠って立っていた基盤が失われるといった体験をした時に、まさに上のような思いで自分を振り返り、最終的には、すべてを自分の問題として受け止め、そこから再出発します、それゆえ主よ、わたしをお許し下さい、わたしをお導きください

と言って祈ったことが実際にあります。

魔境に陥った時の苦悩、苦しみと、そこから脱する際に必要だった覚悟、ゼロからの再出発をしようとの気構え、裸で生まれた自分、なにもなくてもいいではないかと本当に思い直した自分、そういう実体験があるので、自分なりに信念をもって上の言葉と解釈を書いているんですけどね。

絶対に失ってはいけないのは、自己責任のところ、だったと振り返って思います。人のせいにしたらお仕舞いなんでしょうね。誰それのせい、悪魔のせい、悪霊のせい、とかいって、逃げていたら魔境からは抜け出せない。苦しみからは逃れられない。

執着の部分を悪魔に付け込まれて、そこを増幅されて魔境に陥る。魔の惑わし、というのはそうしたもので、ヨブを惑わしたサタンの災いも、言ってみれば、そうしたものだったのかもしれない。

自分自身の執われ、家財への執着無く、身内に対しても無く、自分の肉体にも執着が無かった、としても、心そのものにはまだ執着がある。
その執着部分を狙われると、魔境に陥ることがあります。これは偉大なる魂であっても、人間として生きている以上あるんですよね。かならずや魔境に陥る最後の戦いがあるものです。

この時に、義人であっても、心のどこかにある迷いや疑い、間違った考えのところをつつかれて、神への不信仰に陥り、自分を見失うことがある。

ヨブが陥った魔境、神を呪うときの言葉、姿を見ると、これは霊的な戦いの最中にあるヨブ、という目で見なおしてみると、また違った読み方が『ヨブ記』には出来るように思います。


ヨブは、神に対して文句を言うようになります。自分はこのような運命に見舞われる理由が無い。自分は神に対して敬虔な信仰を持ち、心正しく生きたはずだ、それなのになぜ! 理不尽ではないか!

といって文句を言うようになるんですよね。

友人が来てアドバイスをしたり、厳しい説教をしても、ヨブは聞く耳を持ちません。

これは悪魔レベルの惑わしを受けている時には、まさにそのようになるんですよね。いくら本来は優れた心境の持ち主であっても、このような精神状態のときには、本来のその人の語るような言葉、考え、思想ではなくなっているんですよね。

どうしたんだヨブ、君はそんな不信仰な人間ではなかったはずだ、神へのまったき信頼を抱いていたはずの君が、なぜそんな情けない言葉を言うのか。

みたいな顛末になってゆくのですが、


以下、つづく。