内村鑑三に学ぶキリスト信仰、そして現代の霊言 | LEO幸福人生のすすめ

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映画「夜明けを信じて」には、主人公が愛読している名著のタイトルがいくつか登場していましたよね。

たしかそこに出ていたと思いますが、内村鑑三の「後世への最大遺物」とか、西田幾多郎の「善の研究」とか、わたしも総裁先生を見習ってか、信者になりたての青年期に、ほぼ同じくらいの時期に読んでいたと記憶しています。
それから20年くらい経って、電子書籍を利用するようになった際にも、最初に試し読みをした数冊のうちに、この両者の電子版が含まれていました。電子書籍で再読しながら、せっせと指を使ってラインを引いたんですけどね。
青空文庫で無料で読めてしまうのだから、著作権が切れるというのはおそるべきことです。特に電子書籍の場合は、吉川英治ほか無料で読めてしまうものが数多く出回っていて、

もっとも私は正式な出版社のバージョンでも買いなおしましたけどね。当時の前書き後書き、それから解説などもきちんと載っているので、オリジナル版を持つに越したことはないので、きちんと買います。

わたしはキリスト教の著作家も、哲学を語る著作家も好きですが、内村鑑三さんの「後世への最大遺物」は、当時行われた講演の書き起こしで、ページ数にしたら非常に少ない薄い本ですが、その内容は濃く、読者に伝えられるメッセージ性も崇高で深いです。何度も読む価値のある名講演だと思います。

内村鑑三さんに限らず、キリスト教の著作家の人たちの素晴らしいのは、神さまの前に謙虚である、ということですね。皆さん、信仰の訴えに関しては激しく強いのだけれども、神仏の前に在る自分という一個の人間の小ささは深く深く理解なされている。だからこそ、常人では思いもよらない深い謙虚さの中にみずからの魂を置かれている。そこが凄いです。

アウグスティヌスの「告白」などは、もう謙虚さの極致といったら、この著作を超えるものはそうそう無いだろう、というくらいに謙虚なる気持ちで徹底して貫かれた宗教的自叙伝ですし、
わたしがよく紹介している三浦綾子さんも、神さまの前での謙虚さは驚くほどに深い謙虚ですし、内村鑑三さんも、あれだけ激しくハッキリモノを主張する方なのに、自分は神の前ではいかほどのものでもない、単なる一信者に過ぎないといって、謙虚なる気持ちがあらわされています。
 

 

 

私は教師でも牧師でも神学者でも 何 んでもありません、私はただの普通の信者であります、 故に私の申す事に何にも深い事やむずかしい事のないのは 勿論 であります、私はここに宗教研究とか比較宗教とか申して宗教を学者的に論究致そうとするのではありません、私は私の信仰ありのままをお話し致そうと思うのであります。


私はただの普通の信者、と述べつつ、自分の信仰ありのままを話します、と始めています。

 

 

宗教は事実であります、議論ではありません、信仰の事実なくして宗教は議論することの出来るものではありません、この座談の如き実に取るに足らないものでありますが、しかしこれとてもまた事実無しの宗教談ではないつもりでございます。


そうして、宗教を語る、というのは、宗教的なる事実を語ることである、ということを述べています。
宗教的なる事実というのは、内面の体験であり、実体験ですね。自分自身が真に実体験した内面の真実、そうした意味での信仰の事実を自分は語る、と述べています。

自分の体験となっていない、単なる議論、理屈、事実をともなわないような空理空論で語れるものではない、内面の真実、それを吐露するところにこそ、宗教的な真実があるのであり、それを語るのが伝道なのである、ということだと思います。

これにつづく本編を読んでゆけば、心の中で得られた平安、救済、神のもとに憩うことの出来た喜びを語ることが、内村さんにとってのキリスト教の宣教であり、述べ伝えることの意義であったことがわかるかと思います。


内村さんはキリスト教一筋なので、(当時の)仏教に対しては批判的で厳しい指摘を為しているし、儒教や神道に対しても高い評価は与えていませんから、キリスト教の真髄という部分に集中しての学びに特化したいと思いますが、

 

 

 

 

今の日本の上流社会の人のように全く無宗教なるは私のとても堪えられない 処 でございまして、私に取りましては宗教は生存の必要品とも申すべきものでございますから、私は私の良心と智識と精神的要求とを最も多く満足させる処のキリスト教を信ずるのでございます。  
しかし私のキリスト信者なるは私自身がそう認めているまででございまして、何にもいずれの教会かあるいは教師より信者たるの免許を受けたからではございません、


明治の当時において、日本人の上流階級にある人は、まったくの無宗教の人も多かったのでしょうか。無宗教なる人生など有り得ない、宗教を信じることは生存の必需品ではないか、と述べています。

しかして、内村さんは教会のヒエラルキーの中にあって、正式なキリスト信者として認定されているからキリスト信者なのか、といったら、そうではない、と自身で述べています。
自分は、いずれの教会からの認定を受けたから信者を称しているわけではない。

自分は、自分みずからの心の中において、直接的に神さまと向き合い、キリストの名のもとに、神さまとつながっていることを信じている、感じ得た、つかみえた、という意味で、キリスト者なのである、ということを言っているのだと思います。

そうした内村さんに対して、批判する人間がやはり現れたようです。

内村さんも初期にはどこかの教会に所属していたようですが、とある批判者は、内村が信徒に含まれるような教会は、神の教会であるはずがない、とまで言って批判したそうですが、

そう言われた内村さん自身は、そんな誹謗は屁とも思っていなかったようです。

 

 

 

 

多くの他の宣教師、神学博士達にして私をキリスト信者と認めない人は 沢山 あると考えます、しかし私はそんな事は少しも気に留めません、私はもとより人の意に 適わんがためにキリストを信ずるのではありませんから、他人からどんなにいわれようともそれは私の信仰上には何の関係もない事でございます、何にも私は監督さんに救われて天国に行こうと思う者ではありませんから、監督さんに 見棄てらるるくらいの事に私は何の 痛痒 をも感じません、元来安心立命は教会または教師の認可などに 依 て来るものではありません、そんな事で心配するようではいまだキリストを信ずる者とは言われませんと思います。  


そんな愚かな誹謗しか出来ない奴の言うことなど、聴く必要はない、と一蹴しています。
そもそも、そんなことを言う相手の判断に適うためにキリスト信徒になったわけじゃないし、そんな人の言うことは自分の信仰に何の関係もない、そう言い切っています。痛快ですね。本当にそうですもんね。
その人が自分を天国へ導いてくれるわけじゃないし、その人に愛想をつかされたとしても何の痛痒も感じませんよ、と。
わたしの魂の安心立命は、その人から来るわけじゃないし、さらに言えば、教会から来るのでも、教師の認可で与えられるものでもない。

それは自分自身の内面において、わが魂が直接、神さまからいただくものだ、という確信でしょうか。これがあるからこそ、内村さんは、悪質な誹謗などは一蹴して、問題外であるとしていたのかもしれません。

そうした気概のある、強い信仰、信念を抱いた内村さんですが、内村鑑三と言えば、無教会派というその独特の立場が有名ですね。ご自身で次のように語っておられます。

 

 

 

 

 

私は実にこの世においては無教会信者の一人でございまして、その点においては詩人ミルトンと同様の地位におるものです、勿論普通の人情として孤独は決して望ましいものではございません、日曜日ごとに教会に 集って兄弟姉妹と喜楽を共にするのは実に楽しい事であるは私もよく知っております、さりとて人はその確信を 枉げてはなりません、彼に取りては霊魂は教会よりも大切なるものでなければなりません、


教会に属さず、とはいっても、むろん人情としては、孤独は望ましい状態ではない、とおっしっています。
同じく教会に通って共に相集う兄弟姉妹と喜楽を共にする方が楽しいであろう、と述べています。
初期の頃には、とある教会に所属していた、とも述べていたので、そういう時期を経験しつつも、たもとをわかって、自分は独自の立場を取る、といって選択したのが、無教会、という立場だったのかもしれません。

教会に所属すること、そこで相集うことも大切だろう、しかしてそれが、自分の霊魂にとって善き影響を与えてくれるどころか、その反対に、悪しき影響を与えることになる場合がある、自分の場合はそれであった、霊魂を高める守ることの方が教会よりも大切なのだ、自分一個の霊魂の修行、鍛錬、そのためにどうあるべきか、という問いですね。

教会や所属する団体が、霊的修行のさまたげになる、ということもあるだろうし、時代によっては形骸化して堕落していることもあるだろうし、そういう場合は疑問が絶えずに去ることもあるのでしょう。
鎌倉仏教の開祖たちが、比叡山で修業したにも関わらず、当時の比叡山に飽き足らず去ったように、そうした事情も、真に偉大なる人の場合はあるのかもしれない。

孤高なる道ですね。独りにて道を求めないといけない、そういう課題の偉大なる魂、例外的なる人の存在もあるのかなぁと思います。
イエス様も、母のマリア様はエッセネ派に属していたとスピリチュアルで言われているけれども、そこから離れて独り修行の時代を生きたことがある、と言われています。マニ教のマニも若き日に所属していた教団を去り、独自の立場に立って真理を探究して、のちにマニ教を開いたそうです。

これが、組織を単に嫌うワガママ人間の野狐禅と違うのは、こういう人たちは自分に対する限りない厳しさを持ちながら、なおかつ、神の前で謙虚しごくである、という特徴を持っていることですね。
わがまま勝手な人間ではないし、自分勝手な自己中人間でないのは当然のこと、もっと大きな視野に立って、人々の魂を救う真理を求めて生きんとしている、だからこそ己に厳しく、他者には寛容であり、かつ神さまの前ではいと小さき自分であるとひれ伏し、自分の罪深さを詫びて止まない懺悔の人、反省の人であるわけです。俗人が自分に寄せて、俺は独りにて群れから離れて悟る!なんて主張する根拠にしていい話ではないんですよね。
無教会と野狐禅は似て非なるもの、正反対の立場といってもいいでしょう。その違いを見抜くには、その人が自分に厳しいかどうか、反省心があるかどうか、神の前に畏れかしこむ謙虚さがあるかどうか、そこを見ればいい。そうした心構えの無い人の場合は十中八九、単なるワガママの独りよがり、野狐禅傾向にすぎないかと思います。

 

 

 

 

 

 

私は勿論完全無欠の者ではございません、私は神の前に立てば実に罪人の 頭領 であるといわなければなりません、
 

私は無経験と無識との故を以て多くの 間 違 を致しましたけれども、いまだかつて心中に計画して他人に害を加えんとした覚えはないつもりです、しかしこれは単に私が人と社会とに対する私の無罪を表白するまでであって、全能全智の神様に対しましては私は深い罪人でございます、そして私の罪人たるは私もすべての人類と 均しく生れながらの 私慾 の人であるからでございます、私は神の 救済 に 与 かる前は名誉を愛し、虚勢を張るを好み、人の上に立つを喜び、敵手の失敗を聞いて喜び、怒りやすき、 宥恕 なき、実に 憫 むべき者でありました、しかるを神はその限りなき恩恵を以て神の子にして人類の王なるイエス、キリストに依て私のために救済の 途 を開かれました、故に私は感謝しつつ日々その恩恵に 沐浴 しておる者でございます、しかしかく申せばとて私は既に完全無欠の人となったというのではありません、罪に依て生れし私の事なれば私が天の使のような純白無垢 の人となり得るはなお永き後の事でありまして、多分私の肉躰が腐敗に帰した後の事であろうと思います、しかし快復時期の 既に私の心中に始まりし事は私の 毫も疑わない処であります、私は確かにイエス、キリストの 医癒 の力を感じます、彼の恩恵に接して私の心に存する私慾の念は確かに消散減却しつつあります、


自分は罪人の頭領である、とまで言っています。そこまで自分を徹底的に小さくしているがゆえに、その反省の心、懺悔の自己洞察も深くなるのだと思います。
だからこそ、心の奥の奥にある神性に、本当の意味で到達し、それが信仰の確信、自己確信、内面にある神の発見につながるのだと思います。

自惚れている人には神は見いだせない、自分の心の奥底にある神性は発見できない。

無経験、無識、といって、自分の経験など無きに等しい、知識など無きに等しい、と自己反省して、少しも己を誇るところがない。
心の中に発見しえた神とのつながりに対しては、ものすごい信念と自己確信のある言葉を発する内村さんですが、自分一個の私見や我見に対しては、一切の慢心を排して、神の前に謙虚なんですよね。
こういう心構えの人であったからこそ、無教会であっても正しい道から外れないで人生を全うできたのだと思います。

自分は神の前で「罪人である」と言っています。なぜ罪人か。私欲に生きているからだ、と言っています。自分にはまだ私利私欲の心がある。自己中心の心がある。

神の救済にあずかる「前には」名誉欲もあったし、虚勢も張る人間であったし、人より上位に立つことを喜び、敵の失敗を喜び、怒りっぽく、人を許さず、と言った、実にあわれむべき人間であった、自分はそういう愚かな人間であった、と述べています。

神の救済にあずかる「前には」そうであった、と述べている。

これは言い換えると、神の救済にあずかれたことで、自分はそうした低級な心から僅かながらでも離れる道へ入ることが出来た。それ以前は出来ていなかった、という自己反省のことばかと思います。

真に救済されるとは、その救済の光に照らされて、みずからの愚かな部分、いやしい品性、自己弁護の心や、自分の利得によって動くエゴを、去る必要があるんですよね。そうなることなくして、救済された、自分は救われた、などと言葉だけで言ったとて、それはむなしいことにすぎない。

心があらたまってこその救いであり、救いはその人の心をあらためさせ光らせる。光ってこなければ、神の救いが得られたとは言えない、わかっていない、ということかと思います。

イエス・キリストは、私に対して、救いの道を開いてくださり――開いてくださりであって、まだその道に入りつつあるところ、これから歩んでゆくべき道に入らせていただいただけであり、まだ完全無欠の人間になりえたわけではないのは、言うまでもないことです。そうなるのは、なり得るのは、遥かなる先のこと、遥かなる未来のことであろうし、それは自分が死んで後のこと、魂になって後のことであろう、天使のような純白無垢の人となり得るのは、と述べています。

キリストに与えられた救済の道を歩みながら、日々感謝をしつつ、その恩恵に沐浴している自分です、と述べています。
単なる知識や理屈で、信仰とは何か、宗教の救いとは何であるか、という議論で救われているわけではなくて、そこには内村さん自身の魂の実体験、魂で感じたところの事実、内面の真実、宗教体験そのものがあるのが明らかですね。
日々の感謝がある、日々感謝をしながら生きている、生きることが出来る、その恩恵、癒し、喜びのなかで沐浴している自分、と述べている内村さんには、どれほどの内面的なる安心立命、心の平和、安らぎがあったのだろうと想像されます。

真に、神さまと向き合うこと、自分一個の魂できちんとつながること、心の奥に神性を見出すこと、神さまと自分の関係を確信できるところにまで至ること。

そのためには、自分の小ささを本当の意味で深く知る、自分の未熟を深く思い致す謙虚さ、反省の心、懺悔の心が必要、自己愛や私欲を恥ずべきことと反省する、自分自身を突き飛ばして厳しく見る目がなくば、そこまでの深い宗教的境地には至れないでしょう。

日々の感謝、安心立命の境地、宗教的なる自己変革と実践が進むほどに、私欲から離れてゆく自分が実感される。無我なる愛の境地というのが、まさにそれではないでしょうか?


ちなみに、内村鑑三さんはすでに帰天して久しいですが、幸福の科学総裁である大川隆法先生に霊界通信を複数回送ってきてくださっており、幸福の科学出版および会内経典にて、現在の内村鑑三さんの考えが奈辺にあるかを学ぶことが出来ます。

 

 

 

 

 

こちらは生前の著書の復刊