トルストイの芸術論を参考に | LEO幸福人生のすすめ

LEO幸福人生のすすめ

幸福の科学一信者のブログです。
幸福の科学での学びを中心として、
読んだ本や、観た映画の感想などを書いています。
面白くて~わかりやすく、ためにもなるブログを目指しています!

 

 

 

トルストイが宗教的転向後、芸術にたいしても根本的に見方を変えたのは、もちろんのことである。その新しい芸術観は、「芸術とは何か」と題する論文中につぶさに展開されているが、第一に、内容の面から言うと、読者の感情を通じて真理を伝えること、第二に、表現の面から言うと、最も 広汎 な大衆にたやすく理解されうることを条件とするものであった。つまり、真の芸術は人生のためとなる積極的な効用がなければならぬという、倫理的な価値を優先させる芸術観であって、そのため、転向以前の自分の作品をはじめ、世界文学の傑作、名作を悪芸術としてしりぞける極端な議論をくりひろげるようになったが、しかし、芸術家としてのトルストイは、宗教家として新たな出発をしたのちも、倫理的要請の重さに委縮し沈黙してしまうようなことはなく、かえって、内部に 鬱勃 としてわきおこる創作欲をおさえることができぬまま、自分の新しい信念見解に抵触しない芸術作品を構想しはじめ、まず民話を執筆し、その後も、長編「復活」をはじめ、多くの中編、短編、戯曲をあらわして、ほとんど死ぬまで創作の筆を断たなかった。そうした作品のなかでも、民話こそ、「芸術とは何か」に述べられた尺度、つまり、宗教家トルストイの精神に最もよくかなうものと言ってよく、トルストイ自身もまた民話を自分の創作全体のうちで最も重いものと考えていたのである。


トルストイが宗教的回心後、真の芸術とは何か、と問うて出した答えが上のようなものであった、とのこと。

読者の感情を通して真理を伝えること

とあるように、確かに芸術というのは、理性に訴えかけるというよりは、遥かに、感情に訴えかけるものであると思うし、理性か感情か、という比重でいったら、理論を述べる思想書と、感情に訴えかけるドラマを語る芸術との違いは、この部分に根源的なる違いがあるように思います。

(宗教書は、理性にも感情にも訴えかける、とも言えるが、哲学は感情を排し、ひたすら理性に訴えかけるように思うし、政治・経済の理論書も比重としては明らかに理性よりで、感情面の訴え無しとはしないが、比重は明らかに理知的な説得にあるように思う)

そしてまた、単に面白おかしく語られていて、読んで楽しめればいいわけではなくて、あくまでも、真理を伝えるものでなければならない、真理を伝えるべきものである、と考えていたことわかります。

第2点としては、多くの人たちに読まれ、理解されること、ともあるので、
素朴な民であっても読めるような、平易なことばを使った、読みやすい、わかりやすい物語を書く、ということだと思います。
これは、教養があって学問のある一部の知識人にしか読めないようなものであっては、トルストイの芸術観からは遠い、ということであって、これは今でも、大衆性であるとか、あるいは、エンターテインメント的な部分まで包含してもいいのかもしれませんが、そうした大衆性を兼ね備えるべき、ということかと思います。

ただ、第一の条件の、真理を伝えるべきもの、という定義があるので、単に面白いだけのエンタメ系や、ドラマ展開が興味深く激しいというだけの小説では、トルストイの理想の芸術には当てはまらない、ということですけどね。

非常に厳しい条件が課されている、とも思えるし、この条件をクリアしなければ真の芸術作品ではない、それは、真理の世界を語る作品ではない、ということになりますが、わたしはこの厳しい芸術観、ひじょうに共感しますし、こうあるべきだし、これをあくまで目指すべきだ、と思って、トルストイの芸術観は本当に支持したいと思います。

幸福の科学の映画作品を考える時に、そこにはやはり仏法真理が含まれてなければならない、という観点は明らかに入っているし、多くの人にわかりやすく、理解しやすい物語形式で提示している、という意味で、ここにはトルストイの厳しい芸術観をもクリアする精神がキッチリ入っているのがわかるので、遥かに高いハードルをクリアしつつ作られている作品なのだ、という目を持ってみないといけないと思いますけどね。

この点、単に面白おかしく、観客の興味を激しく引き付ける、インパクトのある作品であればいいのだ、などという芸術観では到底届かないような、高次の観点から作られいる映画との差があるのだと、思わずにはいられません。


物語作品を創る、というのは、それだけでも大変な作業であるので、おもしろい物語でありながら、そこに深い精神性が含まれている、などというレベルまで描ける作家は、そうそういないのも当然と言ってよく、

世間で大ヒットしたと言われる映画や、マンガ、アニメ、その他、多くの作品を観ても、エンターテインメントとしては面白いけれど、これは霊的な観点から言ったらどうなんだ? 地獄的な作品なんじゃないだろうか? 魔界と通じているような作品なんじゃないだろうか? なんて感じることもしばしばですが、

魂の衝撃だとか、心を強く揺さぶるだとか、それだけで作品の良し悪しを判定するのは危険だなぁ、と確かに思うし、
世界文学でも、天国的なるものと、地獄的なるものがあると言われて久しいですが、これ、自分でも正確に判定する自信、無いですしねー、今となっては。

あの文学者でもダメなのかー、という事例を幾つか知っただけでも、霊的な観点からはどうなるのか、ということ、実際にはそう簡単にはわからないことなのだと、痛感せざるを得ませんね。