レオ;ある小さなスズメの記録&野生のエルザ&アリの話 | LEO幸福人生のすすめ

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LEO知的生活のすすめ-ある小さなスズメの記録LEO知的生活のすすめ-ある小さなスズメの記録

クレア・キップス著『ある小さなスズメの記録』を読んだ。著者は玄関前に落ちていた雛スズメを拾い育て始めるが、何とそのスズメは12年も生き続け、最後は老衰で亡くなる。日本のスズメなんかは、もし雛を拾ったとしても、最初の2,3日を生き延びさせることさえ困難である。餌を頻繁にあげてもアッサリ死んでしまう。なのにこの著者は生き延びさせることに成功させるどころか、このスズメが天寿をまっとうするところまで長生きさせたのだから驚異的だ。著者が注いだ愛情の深さは計り知れない。
しかもさらに驚くのは、このスズメの知性の高さだ。スズメの潜在能力がどこまであるかは定かではないにしても、どう見てもこのスズメは、自身の特殊な生活体験に学んで、個人的な成長を遂げている。神に与えられた本能プログラムにだけ従って生きている下等生物じゃあなくて、明らかに個体としての明確な個性と、特殊経験に学んで新たな方法を獲得していく知性を持っているように思われる。セキセイインコなどにもある程度の知性のきらめきや、音楽に対する好みや感性があるのがわかるが、このスズメはそれに勝るとも劣らない立派な魂の持ち主に思われる。
著者とスズメの交流生活、というか愛情で結ばれた日々は、見ていてとても微笑ましく、心温まるものを感じた。

LEO知的生活のすすめ-野生のエルザLEO知的生活のすすめ-野性のエルザ

ジョイ・アダムソン女史の書いた『野生のエルザ』も素晴らしい。
幼少時から人間と共に暮らした雌ライオン・エルザは、大人になってからも人間との共同生活を続けることが出来たし、それを理解し楽しんだ。野生の雄ライオンを求めて人間の家を離れ、野生の中で子供を生むと、エルザは三匹の子供たちを連れて、アダムソン夫婦のところへ現れる。この場面は非常に感動的だが、エルザと違って子供ライオンたちは、人間に対しての警戒心を決して解かないし、最初から最後まで余所余所しい。エルザが人間とじゃれ合って、この人たちは怖くないよと幾ら教えようとしても、子供たちがエルザ並に人間社会に溶け込むことはなかった。母親エルザが人間と仲良くしているのを横目に見ながら、離れた場所で子供たちは傍観しているだけだ。エルザが亡くなると子供たちは人間との接点を失い、野生へ戻ってゆく。孫の世代になれば、完全に野生に帰り、もはや人間と共に暮らしたライオンの子孫である名残すら残っていないに違いない。

犬の先祖がオオカミだかジャッカルだかにしても、それが人間の元に留まり、共同生活を送るのが当たり前の友になるまでには、どれほどの時間を要したのだろうか?犬系の種族がもともと人と強調しやすい性質を持っていたのかもしれない。スズメは人間の住宅付近で生きるのが便利なので、相当昔から人と共に生きる道を歩んでいるそうだ。だがスズメは人間のペットではないし、友というわけでもあるまい。餌を貰ったり、住処を近場に置きはするものの、決して人間社会と完全調和しているわけではない。つかず離れずの状態で、人間世界の横に並んで生きている。スズメの各個体にどれだけの個性の違いがあるのか、性質の違いがあるのか、それとも互いに似通っていて、わりと画一性が保たれたままでいるのか、違いが明確にある生物ほど、個体化が進んでいて高度な生命レベルにあるようにも思える。

昆虫はどう見ても互いに大した違いは無く、画一的であって、個性というほどのものは無いように思える。
オーストラリアのアリの実験で、働き者と普通のアリと怠け者の比率を比べる実験があったが、怠け者を除去したら、怠け者はいなくなって全員協力して働くことになって、作業効率は上がるだろうと思ったら、怠け者を完全除去した途端に、それまで働いていた者の一部が『代わりの怠け者』になってしまったという。全体のバランスから見て、必ず一割だか二割だかの一定の割合の怠け者が存在する必要があるらしい。
反対に、働き者を全部どけてしまうと、さぞや困るだろうと思いきや、普通かもしくは怠け者のうちから、何と『新たな働き者』が出現するのだという。これはさっきの例と逆の例だが、全体の構成バランスを維持するシステムが働いているらしい、という意味では全く同じ機能がここに働いていることを示唆している。
この両実験を見る限り、アリたちには個性の違いなんてものは無くて、全体としての共通意識みたいなものがあって、その中に働く割合、怠ける割合がすでに決まっているため、常に一定の割合の働きアリ、怠けアリが自動発生するプログラムが存在しているのでは?と推定されるのである。働き者がいなくなったために、オレが働かないと!と思っているわけでもないし、反対に、有閑階級が外されたから、私も怠けていいのかしら?と思っているわけではない。そんな個体それぞれの判断じゃなくて、瞬時に切り替わる以上、どう見てもそれは自動補完機能のようなもんで、全体の統一意識が勝手にバランスを保とうとしているようなものだろう。外見上一匹一匹に分かれているから、私たちはすぐに他の動物や人間と比較して、それを個として理解しようとするが、それは外見だけの個体個体であっても、虫の場合は共通意識なり統一意識が、それぞれの個体を覆って活動しているように思われる。個別意識までは発達していなくて、あくまでも共同意識がバラバラの個体に分散して活動しているような生命体なんじゃないかと思えて仕方がない。オースン・スコット・カードの小説『エンダーのゲーム』の昆虫型宇宙人みたいな感じか。おそらく死後も個体意識として存続するのではなく、群魂として吸収合併されると言われる生命レベルの存在は、地上で肉体活動する際にも、それらを支配しているのは群魂であって、まだ個別意識までは誕生していない、そこまで個の発達は進んでいないと思われる。
以前、さかなくんがイジメ問題で、同じ水槽の中にいじめっ子といじめられっ子がいるという話をしていたそうだが、この話でも、いじめられっ子が可哀想だからといって、水槽から出してあげると、今度は別のサカナがいじめられ始めたという。反対に、いじめっ子をどければ、イジメはなくなると思ったものの、いざどけてみたら、別のいじめっ子が現れただけで、イジメはなくならなかったという。これは居住空間の狭さから来るストレスが原因、という分析で説明するのは無理があると、俺は思う。狭いためのストレスが原因なら、第2のいじめっ子は、第1のいじめっ子が除去される前からいじめっ子であるのが自然ではないか。いじめっ子がひとりいる間は静かにしているが、番長がいなくなった途端に、じゃあ今度はオレが番長だ!などといって威張り出すという理解は、どうも人間社会に置き換えすぎているようにしか見えない。反対にいじめられっ子のケースも同じだ。人間社会と比較しすぎ。全く違う原理で、この現象は発生しているのではあるまいか。
先ほどの、アリ社会のバランス問題と、殆ど同じような事態が、このサカナのケースでも起きているのではあるまいか。それは、個体として活動しているように見えて、実は群魂が個々を統一支配しているからこそ、常に全体のバランスが似たような状態に保たれている、という理解。固体と群魂の違いといったテーマが、そこには存在しているのではあるまいか?



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