子供の頃、視力が両目とも2.0だった。
それが特にすごいという自覚はなく、当たり前だとしか思わなかった。
ところが 12歳くらいになると、本の読みすぎか ゲームのし過ぎか、ゼロコンマ台に落ち込んだ。
視力検査の時、自分だけとても視力が悪かったから恥ずかしかった。
大人になってからは0.3前後のあたりをうろうろしている。
眼鏡は持っているけど、かけたりかけなかったりする。
映画の字幕を読むにはあった方がいいし、スーパーや書店で買い物をするとき、ブログを書くときなどもないとちょっと不便だ。
自然の細かい美しさを見たい時も ほしい。
でも、あまり情報が目からたくさん飛び込んでほしくないときははずしている。その方が落ち着く時が結構ある。
電車の中や 広告など多い街中、あまり会話中に相手の表情を細かく読みたくないとき、裸眼の方がいい。
ぼやーっとした視覚で相手をとらえながら、話しに耳を傾ける方が集中できるのだ。
しかし、そんな風にかけたりはずしたりしてるもんだから、道で落としたり なくしてしまったマイグラスは数知れない。
眼鏡を持ち歩く煩わしさに、レーシックしちゃいたいなーと思うこともあるが、そうすると、ぼやーっとした視覚は失うことになる。
いつもクリアな視界か、TPOに合わせて眼鏡で調節するか・・・果たしてどっちがいいのだろうか。
視覚を閉ざすと、世界の感じ方が変わる。
時々アイマスクなどをつけて、数十分~一時間 ぼーっとしている。
最近 つけると目があったかーくなってアロマの匂いが漂うアイマスクにはまっていた。
寝転んでいる時もあるが、飽きると、そのまま部屋の中を歩いてみる。
記憶を頼りに 時々 けつまずいたりしながら 手探りで歩くと、見知らぬ世界にいるようだ。
触覚には距離がないので、いつも 今・ここを感じていられる。
きょろきょろと視線を動かし、現象を追うのをやめると、心が安らぐ。
自分だけの暗闇という<場>にうつる。
やがて いろいろなことが心に浮かぶ。
今日、あんなことをしたな 昨日はあの人にあったな ・・・・ そんな風にして物事の流れをとりとめなく辿ったり
そうしていると、考えるもの 感じるもの 存在するものとしての自分が よりはっきりしてくる。
時間の流れまでもが いつもと違ったものに感じられる。
きっと子供の時に 布団の中で目を閉じた時の 暗闇も 今 大人になって目を閉じた時に見える暗闇も
何も変わらないのかもしれない。
いつの時も 変わらず <自分>がいて <考え>があり <感情>もある。
目に映る世界や 鏡に映る自分は 常に変わっていく。
でも、目を閉じた世界は変わらない。
そして、目を閉じても聞えてくる 親しい人の <声> も。
人の声は 年をとってもあまり変化しないことが多い。
<声>は波動だ。
その人自身の刻印をずっと保っている。
<声>は外見よりも、永遠の魂により近いのかもしれない。
目に見える世界に疲れたら ・・・・
目を閉じて、目に見えない世界を見てみる。
そこは本当は暗闇なんかじゃない。
自分の意識 命 声 触れ合う手 抱きしめられる感覚 思い出 夢・・・・・愛。
目を閉じても 残るものだけが きっと真実だと思う。