実家に帰った時、『たまに良いことをいう父』が、母方の家系図を見せてくれた。
父は家族の記録を調査、記録するのが好きで、その興味の対象は自分の父母の祖先だけじゃなく、母方の家系にまで及ぶ。
こと細かく書かれた系図や年表を見ていると、いったいこの情熱はどこから湧いてくるんだろうと思う。
とはいえ、僕も最近 自分のDNAがどのようなルーツを持っているかということに関心を持ち始めていた。
10代 20代の頃は割とどうでもよかったことではあるけど、自分の体と長い間過ごすうちに、「あれ? そういえば これ、どこからきたんだろう?」 という素朴な疑問がふと頭をもたげる。
日本人がもしも大陸を横断したり、海を渡って この島にたどり着いたんだとすると、僕のDNAの中にもそんなジャーニーの記録が残っていることになる。そのDNAの声に耳を傾けたくなってきた。
そうすると 自分の命が何を願っているのかということがわかるような気がするからだ。
だから 父が 作った母方祖先の 歴史年表を僕は食い入るように見つめた。
母方親族には 橋本関雪という日本画家の師であった片岡公曠という人物や 戦後改進党という政党で衆議院議員をしていた人、カンの虫封じ師をしていた人 など興味深い人物がちらほら見える。
この人たちの才能や能力のほんの一部でも自分に宿ってはいないだろうか・・・と淡い希望を抱いたりもする。
年表を読み進めているうちに 視線が止まった。
「1945年 5月20日 沖縄首里にて戦死」とそこには書かれていた。
それは僕の祖父の弟であった Tさん についての記述だった。
「え!? おじいちゃんの弟って 沖縄戦で亡くなってるの??」 と僕は思わず声を上げた。
僕から見て大叔父さんにあたる Tさんは 1945年の 5月20日 25歳の若さで 沖縄で戦死していたのだった。
1945年の 5月と言えば 当時司令本部のあった 首里が米軍によりまさに陥落しようとしていた頃のようだ。
どうやらT大叔父さんは その攻防の中で命を落としたようなのである。
知らなかった。
というか申し訳ないけど 祖父に弟さんがいたことすら 今の今まで知らなかった。
僕は ここ数年沖縄に心惹かれてきた。
北谷でダイビングをしたり 神の島と言われる久高島を訪れたり 首里城にも立ち寄った。
それは自分自身の旅だと思っていた。
沖縄の民話や伝承が気になったり ウチナーグチ(沖縄方言)がとても懐かしく聞こえたり、沖縄の唄を聞いて泣けてきたりするのは、もしかして過去世で琉球にいたのかな?? なんて思うこともあった。
父も母も関西出身の僕にとって 不思議な憧れで僕と沖縄を結ぶ糸は DNAではなく 魂以外にないと思っていた。
それと同時に 沖縄の影にも 僕の心は吸いこまれていくようだった。
幼いころに聞いたサトウキビ畑の歌は脳裏に 悲しく 透明な風景を 浮かび上がらせた。
戦さの記憶。
戦後何十年経ってから生まれたにも関わらず、
しかも 遠く離れた 島の歴史でもあるにも関わらず なぜか あの戦争の記録を調べていたこともあった。
大叔父さんのTさんの存在を知ったことで 僕と 沖縄を結ぶ糸が 一本増えたような気がした。
DNA的にも 僕と沖縄とは 因縁で結ばれていた。
沖縄県糸満市にある平和記念公園には平和の礎という碑があり、沖縄戦で亡くなった24万人もの人々の名前が刻まれている。
祖父は数年前に99歳で亡くなったが、ずいぶん前に そこに刻まれた弟のTさんの名前を探しに 沖縄を訪れたことがあったそうだ。
そんな話しも初めて 母の口から聴いた。
血の物語に耳を傾けようと思えば もしかすると それは引き寄せられてくるのかもしれない。
神の島を尋ね 美しい海に潜って楽しんでいた その頃の僕は そんなことは何も知らなかった。
でも 何も知らなくても きっと 僕は 僕の命の書の中に生きている Tさんとともに 旅をしていたのかもしれないと思う。