苦労を経て造られたYSも、半世紀を過ぎれば引退は免れません。
しかも製造会社である日本航空機製造株式会社までが、それよりも早く1983年3月をもって消滅します。
ならその後の修理や部品供給はどうなったのだろうか?造りっぱなし、売りっぱなしでYSを買った航空会社は運用・安全確保に困らなかったのだろうか?の疑問が生まれます。
それに対し、総務部のK氏は
「1990年にYSの治具(修理するために必要な道具類)をこの杉田工場で見たことがありますから、会社がつぶれても修理などは対応できたはずです。」
また先のO氏は
「日本航空機製造がつぶれた後は、三菱がサポートしました。」
と教えてくださいました。
その後調べた文献でも『YSが今(2005年時点で)も運航できるのは、三菱の支援があるから』ということが書かれており、『この支援は5機以下になるまで続けられる』というのですから、物を造り、売るというのはそれ相応の責任が伴うものであります。
そしてとうとう絶滅危惧種となったYSに対し、航空誌は昭和歌謡のイントロ時に司会者が語る七五調の文体で別れを盛り上げ、運航会社はファイナルフライトに向け各種のイベントを打ちました。
それに感化された飛行機ファンは『惜別』という特別な感傷をもちながら引退日を迎えることになります。
<ANK最後のYSへは『それぞれの想いを胸に、別れの時は訪れた』エアライン2003年11月号>
<国内最後となるJACのYSへは『その日、ダートサウンドは伝説になった』 エアライン2006年12月号>
しかし、話を伺った3人の方々からはそういった空気は全く感じることはできません。自分たちが造った飛行機なのにどうしてだろう・・・?
総務部のK氏とT氏は
「YSはニッピにとってまだ現役なのです。なくなるのはエアラインのYSですよね。でも、航空自衛隊に納めた電子訓練機や情報収集機のスーパーYSはうちが造りましたし、
<入間電子測定隊のYS-11EB 入間 2018.04.02撮影>
海上自衛隊、海上保安庁、航空局などにもYSはまだ残っていますから。」
<千歳に配備されていた海保のYS-11(JA8702おじろ) 釧路空港2004.12.28 >
<航空局のYS-11(JA8610) 後ろに見えるのは国際線ターミナルでオープン前のエプロン2010.09.12>
また、O氏は
「冷たいようですが、亡くなるのは仕方ないのです。その代わり新しいものが生まれます。その新しいものを私たちは造っているのです。」
先のK氏とT氏の言葉は、目で見える事実に対する返答。次のO氏の言葉は作り手側の思いから発せられた返答。
そのどちらもが感情に流されることなく、冷静に状況を見て判断することの大切さに気付かされた言葉でした。
これで杉田ニッピと、YSについてのレポートを終わります。
最後に会社設立から間もなくして建設されたニッピの旧玄関を貼っておきます。
戦後の自動車修理第1号(まだ飛行機に関われなかった)と記念撮影したのは、この玄関。
杉田ニッピはここから始まったといってもよい、記念の場所であります。
もう少し涼しくなったら散歩がてら、根岸・伊勢佐木町・間門・ニッピを散策するつもりです。
長い間のお付き合い、ありがとうございました。


