映画「悪霊島」は横溝正史がお亡くなりになった1981年の角川映画です。


原作は1979年から1980年まで角川文庫の「野生時代」に連載されたもので、連載が完結されてすぐに映画化されました。


これが横溝正史執筆の最後の金田一物となりましたが、遺作にふさわしく、「悪霊島」には横溝文学の魅力のすべてが詰まっています。


物語りは初めから最後までおどろおどろしく、設定も小道具も登場人物たちも、昭和の風俗文化の紙芝居を見るようです。


伝統という名の階級社会に根付く因習に囚われた心を開かない島の住人達。


冒頭の犠牲者のダイイングメッセージ「鵺(ぬえ)の鳴く夜は恐ろしい」に象徴される、横溝文学の原点ともいえる怪奇趣味。


そして、お決まりの、息をのむほど艶やかで美しいヒロイン巴御寮人。

妙齢を迎えたヒロインの双子の娘。


「獄門島」と「八つ墓村」を合わせたような「刑部(おさかべ)島」で、歴史的に繰り広げられる漁師筋と平家子孫筋の勢力争い。


島を定期的に訪問する、人形遣い、置き薬売り、神楽太夫の旅芸人等の分化遺産的職業の男たち。


冒頭の殺人に続く犠牲者の「いちこ(霊媒師・口寄せ)」の老婆。


これらの「ザ・横溝ワールド」とでもいえるような世界が、あたかも鳴り物入りで聞こえてくるような、作者自身の芝居的な語り口で、ぐいぐいと「悪霊島」の世界に引き込まれていく作品です。


さて、1981年の映画「悪霊島」は、これは角川春樹の意図でしょうか、主題歌にビートルズの「LET IT BE」と「GET BACK」が使用されており、映画の公開前、LET IT BEはリバイバルヒットをしました。


「LET IT BE」はビートルズの代表曲だけではなく、ポピュラー音楽史上、もっともすばらしい曲の1つと言っていいでしょう。


この映画のためにシングルレコードが発売されましたが、それまで発売されていた過去のシングル盤の「LET IT BE」とは、最後のサビ前の間奏が別バージョンでした。


俺が知る限りこのバージョンは映画のシングル盤で初めて聴いて、あ、いいなあ!と思ったものです。


とはいうものの、原作を読んでいた俺は、なぜ「LET IT BE」が主題歌なのか、意図が理解できませんでした。


はっきり言って、何のつながりもありません。この段階から映画には期待していなかったのですが、公開初日に映画館で観た時に、こんなビッグタイトルを、なんという作品にしてしまったのだろう・・・と、主演の岩下志麻や娘の岸本加世子、島の実権を握る佐分利信などの大物役者達が可哀想になりました。


映画の主演の古尾谷雅人は、この映画でも役者として、とてもいい味を演じていましたが、なんせ単なる気取った団塊世代の陳腐な自分探し中の若者役に変えられてしまっており、同じような役柄の1977年の映画「八つ墓村」の萩原健一とはストーリーの関わり方も、存在の在り方も、野村監督や萩原健一の方が格も力量も全然上です。


原作では古尾谷雅人の演じたキャラクターは、金田一ファンならば「ええーーーっ!」とぶっ飛ぶ、出生の秘密を持っているのですが、映画ではこれを完全に無かったことにしており、これひとつとっても、監督が横溝ファンではなかったことが、よーく分かります。


映画「悪霊島」の劇中に出てくる言葉の、


「現代人の失っているもの。それは静かで激しい拒絶だ」


これが映画のキーワードです。


この言葉はなかなか含蓄のある言葉で、ここからビートルズの「LET IT BE」につながるのでしょうが、いかんせん、映画の中では伝えきれていません。


この言葉のあるがままを顕しているのは、実は1977年「八つ墓村」の萩原健一の方です。


さらに、市川崑の「悪魔の手毬歌」の岸恵子、同じく「女王蜂」の岸恵子と仲代達也、「獄門島」の大原麗子、「病院坂の首くくりの家」の佐久間良子もそうです。


篠田監督が素晴らしい映画監督であることは異論がありませんが、金田一物というのは本格ミステリーであるということが、完全に欠落しています。


原作を知らずとも、映画開始から20分で犯人と殺人のトリックが分かります。殺人の動機も分かります。そこには何の伏線も、リリシズムさえありません。


金田一物はすべて観ていますが、この「悪霊島」は俺的にはワースト映画です。


さらに、最初から違和感のあった「LET IT BE」の版権が切れて、現在、入手できるDVDには、レオ・セイヤーが別の曲かと思えるほどに名曲をいじった「LET IT BE」を、ビートルズのオリジナルに差し替えてDVD化しているので、違和感がさらに別次元の違和感をよび、登場人物の各々が島を去る、この映画で篠田監督の力量を感じる美しい群像劇のラストシーンが、台無しです。


そのリニューアルDVDでさえも、お蔵入りして、現在ではほとんど観ることができません。


この映画「悪霊島」DVDの感想を見ると、ビートルズのオリジナルが差し替えられたことへの不満を、ほとんどの方が書いていますが、絶版になったのは、もともとが失敗作だからなのです。


と辛口に書きましたが、原作は素晴らしいのです!この映画のことは忘れて、もう一度誰かに映画化してもらいたい作品です。


ストーリーに救いがないので、そこは新監督の力量で、滅びていく美しさとノスタルジーを描いてもらいたいものです。


ついでに書きますと、同じく横溝正史のビッグタイトルの「仮面舞踏会」も是非、映画化してもらいたいものです。こちらはテーマがより現代的で、これも決して美しいとはいえないストーリーですが、現代劇にに設定を変えて、映画という枠で観たいものです。

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今日、下関の田園地帯をドライブしていて、田んぼのあぜ道に溢れんばかりに曼珠沙華が咲いていました。


曼珠沙華というと思い出す曲が2曲ありまして、1つは山口百恵の「曼珠沙華」。もう一曲は浅川マキの「港の彼岸花」です。


港の彼岸花/EMI MUSIC JAPAN INC.
¥価格不明
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百恵ちゃんと浅川マキとは、わけのわからない組み合わせですが、どちらの歌も曼珠沙華の花を「自分」に例えています。


浅川マキの「港の彼岸花」は「酒は大関こころいき~」にそっくりで、どっちがどっちの替え歌なのか、昔から解けない謎のひとつです。


悲しい花なら何の花?真っ赤な港の彼岸花 ~浅川マキ「港の彼岸花」~


百恵ちゃんの「曼珠沙華」は『マンジューシャカ』と読みます。この歌は好みではないのですが、この曲がタイトルにもなっている山口百恵のオリジナルアルバム「曼珠沙華」は、俺の思うに彼女のベストアルバムです。百恵ちゃんにはコアなファンが沢山いるので、語るのはやめておきます。


2012年、20年以上務めた会社を辞めた俺は、しばしば自分がどこから来たのかを考えるようになりました。


子どものとき、一度だけ親に連れて行かれた自分の本籍地を思い出しました。


そこは福岡県と大分県の県境の近くで、どんどんと山の中に入っていくと、突然水子地蔵が多量においてある場所があり、そこで車を降りました。


「ええーーーっ?ここが本籍?呪われてんじゃねーの?」


違いました。そこから山の中へ入っていくのです。割と険しい道をしばらく登ると、突然巨岩が立ちはだかっていて、その岩をくりぬいたトンネルがあるのです。


そこをくぐると突然山の空気が変わりました。

俺はさっき見た山ほどの水子地蔵が怖かったのでびくびくしながら通りましたが、そこは突然陽が射して巨岩がところどころむき出しのきれいな景観の谷でした。


そこからさらに岩肌の山道を登って行くと突然平地が顕れました。

平地といってもそこは完全にぐるりと崖に囲まれた、閉ざされた空間で、巨大な杉木立が崖に添ってそびえていました。


絶壁の削れた部分に小さな祠のある神社がありました。


「ここがあなたの本籍よ」

「ここ・・・。俺は八つ墓村か、悪霊島か!」


結構登ってきましたが、崖の上にはチェーンと滑車が付いていてさらに奥へと行けるのです。

俺は高所恐怖症だし、母も一緒だったので諦めて下山しました。


さて、それが自分の本籍地に行った最後です。もう、何十年も前の話し。

なぜそこが本籍なのか、まあ色々な話があるのですが、そういうものは人の数だけあるわけで、割愛します。


さて、2012年、両親が心配で退社後すぐに帰省した俺は、折を見つけてそこに行きたいと思っておりましたが、ふと、行きたいと漏らしたら、両親も一緒に行きたいというではないですか。


さすがにあの山に登るのは無理なので、一族の菩提寺に行きました。ちょうど秋の彼岸の頃でした。


そのお寺の境内には、白い曼珠沙華が見事に咲いておりました。

そういえば中津には白壁を朱に塗った赤壁寺なる呪われた歴史を持つお寺があるのですが、ここは赤いはずの曼珠沙華が全部白い。


白い曼珠沙華を初めて見たので、ちょっと感動しました。


帰りに新しくできた近くの道の駅へ寄ったら、白い曼珠沙華の苗が売っていました。


うーん。うちの祖先の花だし買って帰ろう!と、あるだけ買ってさっそく実家のプランターに。


それから3年。それ以来花は一度も咲かなかったのです。


2014年の9月、親父が喀血して、東京にいた俺の携帯に主治医から電話がかかりました。

医者から直接電話がかかったので、覚悟をして、「私はすぐに帰ったほうがいいですか?」とまず聞いたのですが、大丈夫だと思いますとの返事。


母に電話したら、帰ってくるなと父が言っているというので、しばらく様子を見ることにしました。


結局帰省したのは2015年の1月でした。

いったんは退院した父が、再び入院することになったので帰省しました。


その時は帰省するのがすごく怖かったのです。


俺もいい年だし、親ももうどちらも日本人の平均寿命を過ぎているので、それなりの覚悟はしているはずなのですが、帰省する前日、突然胸がドキドキして、そんなことは俺にはめったにないので、なんだかパニックになってしまい


「あー、俺ってまだこころの準備ができてねえじゃねーか。まだ、嫌だよ!もう少し子どもでいさせてくれよー」

と、一人で泣いてしまった。


53にもなるオヤジが、情けない話ですよね。でもそれで何かがすとんと落ちたのです。

覚悟ができました。以来、東京ー実家間を行き来しているのですが、会うたびに親父は痩せていきます。


3日前、実家の玄関先のプランターに彼岸花のつぼみが突然顔を出しているではないですか!


彼岸花ってすごいですよ。一日で茎が50cm位伸びて、2日で花を咲かせるのです。

相当な力ですね。すごい生命力。


3年ぶりに咲いた白い曼珠沙華。何となく嫌な予感がしなくはないですが、花はとても綺麗です。


花そのものには末香くさい感じは微塵もなく、とても優雅で凛としています。



母はとても喜んでいますが、親父は何も言いません。



もしかしたら、先祖が「お出で」と呼んでいるとでも思ってんじゃねーかな?と推測しています。


今日は親父と2人で郊外に行ったのでした。

田んぼの曼珠沙華が乱れるように咲いています。


そこに、なんと桜も咲いていました。こうなると、冒頭の山口百恵と浅川マキのような、わけのわからない組み合わせで、情緒は吹っ飛び、世も末な気分になるというものです。


ふと、親父が言いました。


「わしが子どものときな、近所のおばあちゃんが腎臓が悪くて、腎臓には曼珠沙華の根が効くというから、田んぼに掘りに行ったら、曼珠沙華の根はふかーくまで球根でつながっていて、掘るのはすげー大変なんだぞ!それでも一生懸命掘ってな、持って行ってあげたら、それはそれは大喜びで、たいそう感謝してくれたよ」


「ふーん。曼珠沙華って毒花じゃねえんだ、薬になるんだ!」

「それが、3日後に死んでしもた」

「ええっーーー?それって、親父・・・」


不謹慎だけど、爆笑してしまった。


真っ赤な夕陽にカモメ飛ぶ

幸せでしたあのころは

夢に見るたびふるさとは

日ごと夜ごとに、遠くなる

~浅川マキ「港の彼岸花」~



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2011年3月11日。当時サラリーマンだった俺は、六本木のオフィスで出版社の方と打ち合わせ中でした。


揺れ始めた時は、震度2~3くらい。たいていの場合、「まあ、すぐに収まるだろう」という正常バイアスが働きますから普通にしていましたが、地震は止まることがなく、約1分半後、もの凄い揺れが襲い、ものが落下したり机が大きく動いたりしました。


俺はすぐに会社のドアを開けて、閉まらないようにドアの前に座りましたが、後ろのエレベーターの箱がガンガン音を立てて、目の前には非常階段があり、生きた心地がしませんでした。


東京では何度も地震を体験していますが、初めて恐怖を感じました。


東北地方での甚大な被害に比べると、東京は被災地と呼ぶにはおこがましいですが、そんな激しい揺れが2分は続いたように感じます。揺れ始めて収まるまでに6分のすさまじい地震でした。


収まると同時に、俺は先ず実家の母に電話しました。直後は携帯は通じました。


「あら、どうしたの?」

「今、すさまじい地震があった。半端じゃなかったから酷いことになると思うけど、俺は大丈夫だから、心配しないように!」


それだけ言って電話を切ると、次に俺の伴侶、親友1、親友2と次々に電話しました。伴侶とは職場が近いので、六本木ヒルズのスタバ前で待ち合わせ、親友は無事と確認できるとすぐに電話を切りました。


それから、会社の人全員に、大事な人に電話をして安否を確認するように告げました。出版社の方にも電話をするように言いました。


それがよかったのです。まもなく電話が通じなくなったからです。

後日、親から、「あなたのあの電話、初めは意味不明だったけど、その後、何日も電話が通じなくて、本当に助かったわ。あれがなかったら、心配でおかしくなってたと思うわよ」と、何度も言われました。


やがて余震が来ましたが、それがまた凄かった。もう、仕事どころではありません。


金曜日だったのと、その週末の日曜日に名古屋へ出張だったので、1時間で仕事を片付けると、待ち合わせ場所に向かいました。4時を過ぎていたと思います。


さて、六本木ヒルズから、自宅のある品川区までは、一ノ橋(麻布十番)まで出ると、もう6車線の幹線道路(途中から桜田通り、国道1号線になる)の1本道で、普通に歩くと自宅までは40分です。


ヒルズのスタバを出たのは4時30分、道路は車と人で埋め尽くされて、週末の渋谷や新宿のように、ぞろぞろぞろぞろ、全然前に進みません。


普通なら五反田まで30分で歩ける距離が、なんと3時間もかかりました。


こんな光景は初めてです。桜田通り添いには、ところどころブロック塀が崩れていましたが、危険な場所はありませんでした。


その間、一度だけ携帯が通じましたから、気になっている友人に電話を掛けました。


やっとの思いで五反田についた俺達は「もう、無理。何か食おう!」と話しましたが、あの混乱の中、一体、何処で何が食べれるのかというものです。


その頃には、被害の状況がすさまじいことになっていることがまだ混乱していました。気まぐれに時々つながる携帯の電波で入ってくる状況は、凄いものがありましたが、本当の被害状況を知るのはもう少し後のことでした。


五反田をゾンビの行列のようにだらだら歩いていて、なにげなくふと上を見上げると、2階にあるとんかつ屋の外階段に数人の人がいることに気づきました。


まさか、営業しているのかな?と思い、階段を上がってみると、なんと、営業しているではないですか!満席でしたが、女将が外に出てきてくれて、もう売り切れのものがあるけれど、大丈夫、食べれるわよと言ってくれました。


後から伺った話ですが、まさかあのような惨事になっているとは、最初はご存じなくて、地震が収まった後、電車が止まって従業員が帰れなくなったので、どうしようと思っている最中、どんどんと人が「何か食わせて欲しい・・・」と入ってきたので、食事を提供しているうちに凄いことになったそうです。


お客さんから状況が段々と分かってきて、外の渋滞も人の波もすさまじいことになったので、来て下さる方を断ることができなくなってしまったそうです。


それにしては、とても優しく迎えて下さった。女将は普段からとても覇気があってテキパキとなさっている方ですが、あの尋常じゃない地震と、3時間もの、のろのろ歩きで、疲れ切っていた俺だけじゃない全員が、女将の笑顔に、どれだけほっとしたことか!


あの日に食べたとんかつは、心から美味しかった。こんな時に営業してて、皆さん、ご自宅やご家族の方が心配だろうにと思いながら、有り難くいただきました。


その日は、素材がすべてなくなるまで、深夜まで営業なさったそうです。


その後も何度も再訪しているのですが、つい最近まで、その日のことを言わずにいました。

今回、ブログを書いていいかどうかお伺いした時に、初めて、「あの日はありがとう」と言いました。


大変だったでしょう?と聞きましたら、お客さんも大変でしたからね。そう言ってくれる人がいて、やってよかったわとのこと。当然、ご商売でしょうけれど、心意気がいいですね!これからも贔屓にしようと思ったことでしたよ。


さて、お腹が満たされると、人間やはり元気が出ます。ようやく帰宅したら9時半でした。途中とんかつ屋に寄ったとはいえ、40分のところが、5時間かかりました。


あーあ、家の中はめちゃくちゃ。東側においてあった2竿の箪笥の引き出しが全部飛び出ていて、服は散乱、天井に突っ張り棒で支えていた本棚も45度に傾いて、何もかもが床に散乱。ところが西側においてあった、俺の大切な食器類を入れた引き出しは、動いてもいない・・・。同じ家の中でもこのようにダメージに差があるので、不運だった家や、ダメージが少なかった家があるのは当然だったことでしょう。


ようやく部屋を片付けて、TVをつけて、それからは深夜まで、TVに釘付けで、言葉が出てきませんでした。5時間歩いたことなんて、問題になりません。その後、日を追うごとにさらに深刻な被害が生じ、東京ではみるみる店から商品が無くなり、人生の価値観が変わりました。


これは俺だけではないでしょうから、深くは言及しませんが、その日から、伴侶(結婚していない)と同居することに決めました。そして翌年の4月に、20年働いた商社を退職しました。


何故なら、震災の2日後、3月13日(日)の名古屋出張に行かされたからです。


新幹線も満足に動いていない。被害状況はどんどん酷くなる。電話もまだ満足に復旧していない。そんな中、社長から、何一つ俺のプライベートの安否を聞かれることもなく、新幹線が動いているなら行ってくれといわれたので、「はい」とひとこと言ってすぐに電話を切りました。


当時営業本部長でしたから、業務上の責任感は人一倍あり、次期社長と言われていましたが、これが、退社する心を決めた最初の瞬間です。


本当に守らなくてはいけないものは、社会的地位でも会社でもないと、自分の中での価値観が180度変換しました。


守るべきものは先ず自分と、そして自分が愛する人です。それから、困っているいる人を助けたいとも思いました。


あの日、会社の利益が優先される場面では、絶対になかったはずです。


現に、取引先から、なぜ来たのか?大丈夫なのか?と言われたほどです。やるべき業務はやりましたが、当然中止と思われていたので、相手にとっても却って迷惑で、何しに行ったのか分かりませんでした。翌日月曜日は部下の安全もあるので、会社を休みにしました。


以来、尊敬していた社長・専務を軽蔑するようになりました。その後、何かにつけて俺のためと言われる度に、お前らの保身と私服のためじゃねーかとしか思えなくなりました。


そこには、ご商売とはいえ、あの状況で笑顔で接客なさっていた、とんかつ 五反田井泉の女将の姿もありました。あの夜、他でも同様なストーリはあったと思いますが、売上の計算の前に、ご家業への純粋な思いと、飯屋としての使命が優先されて、さらにはプライドがあったと思います。


ということで、色んな意味で俺のその後の生き方を変えてくれた出来事でした。




最後に、ここはとんかつ屋ですが、『トンから定食』なるものがあって、これは豚のから揚げ定食なのですが、これが大好き!めちゃ美味しいのです。


五反田にお出での際は、是非一度、ご賞味下さいませ!





店舗情報
■名 称 とんかつ 五反田 井泉

■所在地 〒141-0031
東京都品川区西五反田1-17-6 トミエビル2F

■電話番号 03-3495-0117

■営業時間 11:30~21:00(ラストオーダー20:30)

■定休日 日曜日(祭日は不定休)

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