Amazon.co.jp

「俺たちの勲章」は日本テレビで、1975年に放映された、全19話の刑事ドラマです。


最近CSで放映されて、当時以来40年ぶり!に観たのですが、いやー、いい!


主演の松田優作さんは、俺と同郷の出身で、実家から歩いてすぐにご親戚かなにかの家があったりして、あまりに身近だと夢が持てないのでファンではなかったのですが、改めて観ると、彼がその後伝説になるのがよく分かります。


もう一人の主演の中村雅俊は、『われら青春』の主演とその挿入歌『ふれあい』で既に人気スター、松田さんも『太陽にほえろ』で壮絶な伝説的最期を見せて、役者としての存在感は絶大でした。


その2人がW主演の刑事もので、大ヒットしてもよさそうでしたが、なぜか19話しかなく、さらに2話がカットされて、17話しか放映されずに終わってしまいました。


1話完結のドラマなのですが、どのエピソードをとっても、ハッピーエンドということはなく、破滅していく犯罪者たちの壮絶な人生が胸に刺さります。


毎回そんな事件に巻き込まれたら、刑事であることの信念が揺らいでしまうことは目に見えています。


一度犯した過ちは決して償えるものではないどころか、どんどんと悪い事態になっていき、ふと、ある瞬間に、戦うことを止めてしまう犯罪者たち。その瞬間、死を覚悟するというか、落ちていく運命に身をゆだねてしまう。


若い2人の刑事は、あくまでも熱い血潮と情熱で悪と戦うわけですが、犯人たちの最後の運命は、自分たちが終止符を打たなくてはいけないわけです。


これは「俺たちの〇〇」青春ドラマシリーズの第一作目といわれているのですが、この2人の刑事にとって、この青春は過酷すぎます。


刑事なわけですから、善悪の善の方にいながらも、そのような人々の哀しい人生に人としての共感を覚えつつも、最期の銃弾を浴びせることは、彼らには大きすぎます。


2人の友情も横浜県警の刑事という地位も、破綻するであろうことは、最初から目に見えているのです。


このドラマのオープニングには、吉田拓郎作曲の「ああ青春」のインストルメンタルが流れます。トランザムの演奏ですが、この曲は青春数え歌です。


そう書くと、なんだかめちゃ泥臭いですが、当時から今に至るまで、もうとっくに青春時代を通り越しているにもかかわらず、聴くたびに胸がきゅんと熱くなります。


イントロのピアノがめちゃいいのです。


「ああ青春」はトランザム以外に拓郎自身と中村雅俊がカバーしていましたが、歌そのものの出来は、中村雅俊バージョンが一番好きです。


あゝ青春/M-TRAIN
¥250
Amazon.co.jp

1つ、1人じゃ淋しすぎる

2人じゃ、息さえも詰まる部屋

3つ、見果てぬ夢にやぶれ

酔いつぶれ夜風と踊る街


眠れぬ夜を数えて

日々は過ぎていく


作詞は松本隆です。松本隆といえば松田聖子に代表されるアイドルの洗練された歌謡曲が浮かびます。「ああ青春」の同年、松本隆作詞、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」が発売され大ヒットしました。そう思って歌詞をよく見ると、この青春には、どこかに、かすかに都会の香りがします。


8つやめるさ、抱き合っても

心は遠ざかる、安い宿


2番の歌詞のこのフレーズがとてもいいのですが、当時中学生だった俺も、オヤジになった今に至るまでも、このような経験は一度もありません。


安い宿だろうがラブホだろうが、わざわざ行って、心が遠ざかって途中で止める・・・なんてことはないのです。最後までやって心が遠ざかることは、まあ結構ありますけどね・・・。

といいつつ、このフレーズに共感を覚えるのは何故だろう?

ああ、分かるなあ~と、思いたいだけなのか。


1976年、中学3年生の時、同級生に見事にジャイアンそのまま、しかも柔道部のエースがいました。

こいつが始業式の日から何かと絡んできやがって、どう見ても勝ち目はなさそうなのでシカトしてましたが、そのうち殺意まで湧いてきて、こりゃあ対決しなければいけまいと、ある日、自分でもなぜかわからないのですが、意を決して、俺ん家に来ねえ?と呼びました。


まあ、家ならば暴れないだろうと思ったからでしょうが、戦う気満々だったのに、別に何を話すわけでもなく、お菓子を食ってマンガを読んで帰っていきました。


なんだ、いいやつじゃん・・・。


向こうもそう思ったのかもしれません。それからちょくちょく遊びに来るようになったのですが、なんせ、でかくて強いので取り巻きみたいなのがぞろぞろと湧いてきて、クラスの孤独な戦士だった俺に一気に友達が増えたのでした。


冬休み、俺が勉強を教えるという名目で遊びに来てた時に、ラジオから「ああ青春」が流れてきました。


ああ、青春は、燃える陽炎か

ああ、青春は、燃える陽炎か・・・


いつしか2人で大合唱してました。そいつは普通に頭悪かったですが、陽炎~かげろう~を"太陽"と、臆面もなく歌ってました。


「ああ、青春は燃える太陽か」


俺は訂正せずに、こいつには青春は太陽なんだなと思ったら、ごちゃごちゃ細かい色んなことが、バカバカしくなってしまった。


同時に、そいつから照り返しを浴びたような、眩しさを感じました。

このときから、俺の青春が始まったのでした。


にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ
にほんブログ村

今日、俺のジムのパーソナルトレーナーから、メールで、「自信を持つには、今に満足することが必要ですか?」と質問が来ました。


俺のトレーナーは彼が思っている以上に、凄く優秀なんです。


俺は今年の6月、実家で、どでかい社長椅子を3階まで運んだら、階段の途中で椅子が嵌まり込んでしまい、にっちもさっちもどうにも動かなくなったのを思い切り動かしたら、腰を痛めてしまい、さらにその直後に東京に戻り、痛いのを我慢してジムへ行き、ジェットコースターの安全バーみたいな腹筋マシンをやったら、それっきり、3週間動けなくなりました。


その痛さたるや、これまでのぎっくり腰とはわけが違うので、MRI(人生5度目)に入ったら、椎間板が2か所損傷して1か所はヘルニヤになっていたのでした。


整形外科の主治医はスポーツドクターで、とても繁盛しているクリニックですが、俺がジムに行きたいと言うと、最初は冗談だと思われたのですが、パーソナルトレーナーをつけるならばジムに行ってもいいと言われました。


さて、ジムまで行くのも大変だったのですが、ボロボロな感じでジムで状況を説明したら、大丈夫ですよ!と言ってくれたのがそのトレーナーです。


ところが、そのトレーナーとの最初のセッションで、座って行うマシンは全てドクターストップだったので、人生初のベンチプレス(ベンチに寝てバーベルをあげる)をやったら、翌日から腰が悪化して、また動けなくなってしまいました。


2日後に次の予約を入れていたのですが、2日経ってもまだベッドから動けなかったので、トレーナーに電話をして、動けないから行けないと告げたら、なんと、歩けないならタクシーででも来いと言われたんです!


この野郎、スゲーことを言うな!と思いましたが、考えたら客にそんなことを言う人は居ないですよね。なんだかむくむく好奇心が湧いてきて、頑張ってタクシーでジムに行きました。


着替えることもできないので、そのままの格好でジムに着いたら、すぐにストレッチとマッサージを延々とされたのですが、なんと、普通に歩いて電車で帰れるまでに痛みが消えました。


主治医にそれを言ったら、そんな優秀な人はめったに居ないから絶対に放しちゃダメだよと言われました。


言われるまでもなく、俺もスゲーなと感心したのでした。


それから約1ヶ月後に再び親父が入院して実家に戻るまでの間、時々、こいつ、ドSかなと思ったりしながらも、真面目にトレーニングをしました。


主治医に実家に帰ることを告げたら、俺に、もうこのまま回復する気がするけど、よく頑張った!中年オヤジの星だ!鏡だ!と褒められ、先生から握手を求められました(笑)


さて、実家でもジムに入会し、教えられた通りに続けています。


現在4か月ですが、ベンチプレスは最初はバーだけ(20Kg)がまともに上がらなかったのですが、今は10回×3セットならば、55Kgなら一人で余裕です。


これは普通にベンチプレスをやっている人からするとお子様重量なのですが、そんなことは全く構いません。だって20Kgから始まったわけですから。


さて、そのトレーナですが、俺は実家から何回かトレーニングに関して質問をしたのです。


彼はプロなので、業務に関することは当然対価があり、メールでの質問といえども時間を奪っていることに対して悪いので、もし俺に何か質問があるならば、お返しにプロとしてお答えしますと告げていました。


因みに俺の職業は心理カウンセラーです。


それで、冒頭の「自信を持つには、今に満足することが必要か?」との質問が来たのです。


さて、「自信を持つには・・・」と書いてあるということは、現在、彼は自信が持てていないということです。


こりゃ、いかんなあと思っているのですが、そもそも「自信」という言葉は、我が国において、必ずしもいい響きを持っていないですよね。


「あの人は自信家だ」というと、たいていの場合「テング」「高慢ちき」(どっちも昭和世代の言葉かな?)という意味合いが、ちらりと見えます。


逆に「自信がない」というと、謙虚だという風に聞こえたりもします。


突然ですが、浅田真央ちゃんと羽生君の違いはなんだったと思いますか?


真央ちゃんの「仮面舞踏会」「鐘」は誰も到達できない最高傑作だったと俺は思っているのですが、何故か結果はイマイチでした。


羽生君の「オペラ座の怪人」は、これまた誰も到達できない最高傑作だったと思っていますが、最悪のコンディションの中、グランプリファイナルは鳥肌もののぶっちぎりで優勝しました。


これは「自信」の差だと思っています。


俺の思う「自信」とは、明日は今日よりよくなると信じることができて、未来の自分に対する明るい期待を持てることだと思います。


俺のトレーナーが言った質問の意味は、ありていに言うと、自信とは自己満足かということです。YESでありNOなのですが、それは、自信を持つためには、今の実力を正確に知らなくてはいけないからです。


正確に今の実力を知らない限り、本当の満足は得ることはできないのです。それがいいことでもたとえ悪いことでも、正確に評価すれば心は満足します。


例えば、自分なりに頑張った試験の結果が40点だった!ガーン。ダメじゃん!

しかしそれが現実です。採点ミスがあるわけじゃなければ、突き付けられた40点という今の実力を受け入れざるを得ませんよね。

ところがこのように悪くっても、自己評価が正しいと、心は満足できるのです。


「おい、俺君。おめーは一体、何点取れると思ってたのさ?」

「いくらなんでも50点はいけたんじゃねーか?」

「ほう、テストは100点満点だぜ?目指したのは50点ってか?がはは、自分がバカだとよく分かってるじゃねーか」

「うるせ!」

「50で40なら、あとたった10点だぜ?あと60点は無理だろうがな」

「まあ、無理だーな。じゃあ次は50点だな」

「さすが、スタンダードが低いねえ」

「いーじゃねえか。バカなりに運動できるし、腹筋割れてるしよ」


自信とは自分を信じると書きます。明日はきっと今日よりよくなるに違いないと、自分に対して信頼関係が築けていることが自信なのです。


よくなる根拠がないと言っている人は、それは正しい自己認識ができていないのです。それで心が満足できないので、根拠がないと思ってしまいます。


真央ちゃんも同じですよ。彼女の場合は逆に、自分が最高傑作だという正しい自己認識がどうしても持てなくなってしまったのでしょう。可哀想だったし不運でした。


ただ、テストなら分かりやすいですけど、世の中、点数化できないものの方が多いものです。


そうすると人の評価と自己評価が違ってくるものですが、これは何故でしょう?


実は同じはずなんですよ。よーく考えてみて下さい。何かに目を閉じ、何かに耳をふさぎ、余計なものを見て、余計なものを聴いて、一致しないと思っているのです。


正しい評価を受け入れなくてはいけません。いいことでも悪いことでもです。ダメならダメで、いいならいいで、実際はとても難しいことですけどね、でも、正確に受け入れたら、心の満足度は確実に上がります。


心の満足度が上がると、ようやく自分との信頼関係が結べるのです。

そして、未来の自分に対する期待感が、常に持てるようになるのです。


心とは本来そうあるべきなのですよ!なぜならば、心は死ぬまで成長するからです。


パーソナルトレーナー君、先ずは今の実力をあるがままに認めてあげましょう!


君に難があるとすれば、それは俺が思うに、どこかに自信のなさがあり、見かけ(ルックス)がイマイチぱっとしないということです。これは、君が自信を得ると、顔つき体つき人当りなど、すべて変わりますよ!いくらでも、どうにでもなります。


先ずは、それを正しく認めましょう!


これが君への答えです。



にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ
にほんブログ村

1986年の夏、それまでずっとアメリカに行きたかったのに、なぜか突然フランスに旅行して、パリに2か月近く滞在してしまいました。


その頃は、文化服装学院で服飾の勉強をしたいと思っていたのですが、初年度の費用が大学以上にかかることにぶっ飛んで、さすがに親には頼めないので、会社を退職して土建屋でバイトをして、夜は夜でまた違うバイトをしておりました。


小金が溜まると、すぐに旅行に行きたくなる悪い癖で、当時一番安かったスリランカ航空のパリ行き1年のオープンチケットを買いました。


当時の恋人は都合で2週間しか予定が取れなかったので、別々に行って別々に帰るというスケジュールで、どちらもパリに行ったことがなかったので、ふと見たパリの写真のアレキサンダーⅢ世橋がとてもきれいだったので、〇月〇日〇〇時に橋の真ん中で会いましょう!と告げて、単身スリランカ航空(エアーランカ)に乗りました。


ホテルは現地で探せばいいやなんて、無謀な旅行もいいとこです。


今から考えると、フランス語もできなかったのに、86年といえば俺は24歳だったので、若いって凄いなあと思います。


このエアーランカは、成田―香港―コロンボ乗り換えコロンボ―ドバイ―ミラノ―フランクフルト―パリという、まるで各駅停車みたいなフライトで、パリに着いた時に、俺のバッグは見事に壊れて、どうしたらこんなにバラバラに壊れるのか、多分何かの機械に挟まって引きちぎれたんだと思いますが、中身も飛び出した状態で、俺の荷物一式がカートに入れられておじいさんが持ってきました。


さすがに文句を言ったら、帰りをアップグレードしてくれることになりました。


しかし、とにかく既にバッグとはいえない状態に破れていたので、空港で布製のスーツケースを買ったのですが、それが巨大!人が入るほどの大きさです。


そして真っ赤。気が狂ったような赤でした。


まあ、選んだのは俺なんですが・・・。ど派手なので、目だって、分解するほどにぞんざいには扱われないだろうという意図があったのです。


さて、帰りはビジネスにアップグレードしてくれたので、パリ―フランクフルト―ミラノ―ドバイ―コロンボまでは天国だったのです。


コロンボ空港は、これが国際空港だろうか・・・?と思うような凄いところで、コロンボ―香港―成田行きに乗り換えるために、トランジットにいたのですが、どうやら全てのフライトが遅れているらしくてもの凄い数の人が溢れており、そこを猫や鳥が自由に行き来していました。


コロンボ―成田のフライトは「遅れ」と出ているのですが、それこそ何時間待っても何のアナウンスもなく、とうとうしびれを切らせてカウンターに行くと、凄い人だかりだったのですが、俺のチケットがビジネスだったために、俺だけが空港のレストランに通され、何故か小海老のカクテルが出てきました(笑)


そして、クルーがやってきて、飛行機が壊れた!ので、いつ飛べるかわからないと言われたのです。


何ともすごい話ですよね。そんなこと、聞いたことがありません。俺以外の人はまだ何も聞かされていない状態なのでした。


で、俺はどうすればいいのですか?いつ飛べるかわからないフライトをここで待つのは嫌ですよ?と言ったら、空港のホテルを用意するので、ゆっくり泊まって待ってくれと言われたのです。


ところが、そのホテルが「うーん、無理かも・・・」という感じだったので、俺はクルーに、ホテル代は自分で出すので、もう少しましなところに泊まって、どうせならあなたの国を観光しますので、飛行機がまともに動き出したら、ホテルに知らせて下さいと言ったのです。


ホテルを予約してくれるというので、コロンボ市内のホテルリストを見て、ヒルトンなどの大手ではないローカルの5つ星のホテルにしました。確か1泊が2万円位だった気がします。


俺にはとても高かったのですが、最初に見せられた国際空港のホテルが3つ星にもかかわらず、安全面でも絶対無理だったので、こういう国では5つ星に泊まらなきゃと、高いのを承知で選びました。


どうせ1泊だろうと高をくくっていたのでした。結局、飛行機が飛んだのは5日後!4泊もしてしまったのですが、その時には知りようがなかった。


そして真っ赤なスーツケースをもらい、スリランカに入国しました。


30年前のスリランカは、凄かったですよ!先ず空港の前がサーカスみたい。

どこに何があるのかさっぱりわからないだけではなく、意味もない現地人がわさわさ湧いています。


先ず空港からタクシーでコロンボ市街までいこうとドライバーを捕まえたら、3000円と言われたので、たけーなと思いながらも乗ったのですが、いつまで経っても車を出そうとしないので、なんで出さねーんだ?と聞いたら、相乗りの客を待っているというではないですか。


それで3000円も取るのか?舐めてんじゃねーと捨て台詞を残し、ちょうどそばにいたバスに乗りました。


どこ行きか分からなかったんですが、コロンボ?と聞いたらニコリと笑ったので、まあいっかと乗りました。


料金を払えと手を出されたので、日本円で約10円の札(ルピー)を1枚渡しました(笑)

それで乗れと言われたのですが巨大なスーツケースは荷物入れに入れられました。


しかしそのバスがまたすごかったー!


皆さんも時々TVなどでご覧になるような、すべての窓に箱乗りして、天井にまで人が乗るほどまでに、現地の人が乗ってきました。


俺は一番後ろに座っていたのですが、真っ赤なスーツケースはどこかに入れられて所在不明、車内は、郁恵ちゃんの「ぎゅーぎゅー詰のバスの中ー♪」なんてもんじゃありません!


外人俺だけ。とにかく俺のことを見てニターと笑うのですが、現地の方々は体臭ではなくて、なんだか甘い匂いがして、熱帯なので暑くて、気分は悪くなるし、箱乗りしてる人は多分何人かは死んだかもしれないと思うほどに縦横に揺れるし、ぶっ飛ばすし、まるで生きた心地がしませんでした。


外は熱帯ジャングル。俺はどこに来ちゃったのだろう?1時間以上乗ってました。3000円払ってあのタクシーにいればよかったと何度思ったことか。


大体、なんでこんなことになったのかも理不尽だし、1時間以上も走っていて10円しか払っていないというのもふざけた話だし、それにしても、このバスはどこに向かっているのかさえもさっぱり分からなく、何を聞いてもただニターっと笑われるのも不気味で、あまりの非日常に、だんだん可笑しくなってきました。


さて、どこかに着きました。皆がクモの子を散らしたようにバスからいなくなりました。

残されたのは俺と巨大な真っ赤なスーツケース。


冷静になって周りを見ると凄いところです。とにかく現地人がわさわさ居て、俺を見ています。

とりあえず喉が渇いて死にそうだったので道端に棚をおいて飲み物らしきビンを並べているスタンドでコーラとジンジャエールを足して水で割ったような意味の解らない飲み物を、またまた10円で買って飲んでいたら、目の前を象が走っていきました。


ホテルはどこに?誰に聞いても帰ってくるのはニター。第一、ここはどこだー???コロンボじゃねーんじゃねーか?


車は交通ルールはないも同然にぶっ飛ばして、道を渡るのも大変で、しかも象が来るし。よく見るといたるところに兵士がいます。皆10代の若い兵士ですが眼光鋭く、ライフル銃を持っているのでおっかねー!橋を渡ったら兵士が川でマッパで水浴びをしていました、戦闘服とライフルを土手に置いたままです。


恐るべしスリランカ!考えたらつい先日まではパリにいたのです。あの美しいパリの街並み、セーヌ川はもう完全にすっ飛んで、もう道を聞くのも諦めて、これまた道端のバラックにイスとテーブルだけをおいた何屋か分からない飲食店に座り込みました。


さっきはコーラと頼んで失敗だったので、ビールにしました。また10円です。何もかもが10円!


しばらく途方に暮れていたら、俺の前を白人らしき兄ーちゃんが通るではないですか。カーキのTシャツでお前は傭兵か?みたいに筋骨隆々、どう見ても悪人で、腕のいれずみも見事でしたが、バスからここ、初めて会った白人で、今そいつを逃したら、俺は絶対にホテルにはたどり着けねえと、「おい、あんた!」と自分でもびっくりするような大声で呼び止めました。


めちゃ怖い感じで睨まれたのですが、間髪入れずに「俺は旅人で、道に迷ってて、ホテルに行きたいけど誰に聞いても言葉が通じなくて、自分がどこにいるかも分からなくて、死ぬほど疲れてて・・・ペラペラペラ」と一気に説明しました。


「あんた、タバコ持ってっか?」


さすが、この意味の解らない国の、わけのわからない街を、ただ一人外人として歩いているだけのことはある返事です。


ほらよと、パリで買ったイギリスの煙草の箱を渡しました。


1本取ると、口にくわえて

「火?」ときた。


「あのー、ホテルまでどうやって行けば?」

「三輪に乗れや」

「乗れてたら、行ってるわ」

「ははは」

「じゃなくて、どうやって乗るんだよ?」


そしたら、その兄ーちゃん、おもむろに振り向くと、「ぴーーーーー」と警笛みたいなでかい口笛を吹いたら、あっという間にどこからともなく、タイのトゥクトゥクみたいなのが来て止まりやがった。



カ、カッケー。なんか惚れそうになってきます。

「アリガッデム!」


写真は3輪と呼ばれるトゥクトゥクですが、俺の乗ったのはこんなにきれいじゃなく、幌もなく、第一ペダルのついたバイクでした。

そこにむりやりリヤカーを引っ付けた感じでした。


仕方なくというか他にチョイスはないので、俺はホテル名を告げ、値段を聞いたら50円!白人の兄ーちゃんの存在が効いていたのかも。


そして三輪に乗ることさらに小一時間。やっぱり、俺はどこにいたんだ?未だに謎です。

乗り心地悪い悪い。俺の真っ赤なスーツケースが邪魔ったらありません。パリは寒かったので上着を着ていたのですが、暑くて死にそうなので、どんどん脱いでタンクトップだけ。下は空港で履き替えた、ローブドシャンブル・コムデギャルソンのバカボンのパパみたいなペラペラの縞のハーパンに革靴(笑)。


さっき飲んだビール?なんだかホッピーみたく強くて、酔っぱらってしまったので、時々ペダルを漕いでた亀みたいにのろいトゥクトゥクまがいの乗り物も、混乱した街も、夢の中みたく、どーでもよくなって、煙草を吸いながら鼻歌なんか歌ってました。


うーん、なんか入ってたのかも。


ついに、やっと、やっと、やっとホテルに着いたのでした。

空港からなんと5時間もかかりました。



そのホテルのなんとすげーこと。コロニアル様式の宮殿みたいなホテルでした(笑)

車寄せに入ったら、高級車やクラシックカーばかり。屋根もないようなボロい三輪で乗り付けたのは俺だけでした。


しかも俺はバカボンのパパの格好。白服が飛び出してきたので、日本のパスポートとアメックスカードを渡したら、突然最上の笑顔になったのでした。


いやーね!


ロビーはめちゃくちゃ高い天井に、何故か自由に青い鳥が何羽も飛んでいて、『ようこそここへクッククックー♪』と、歌ってます。あの、青い鳥はなんだったのでしょう?


白服のアテンダントが俺について、通された部屋はなんとスイートルーム。


その後の人生で色んなところを旅行して、色んな所に泊まりましたが、そこまででーんと広い部屋は泊まったことがありません。部屋の一面全部がコロニアルな窓で、目の前がインド洋。西を向いているので、陽が傾いていました。


しかもコネクティングルームになっていて、一体何部屋あるんだか。

あり得ないので、先ず値段を確認したら約束通りに1泊2万ぽっきり。


部屋の隅には、真っ赤なカバン・・・真赤な真赤な真赤なカバン


ダバ・ダバ・ダバ・ダバ・ダッダバ・ダバ・ダバ・・・ご存知ですか?山本リンダの「真赤な鞄」


などど言っている場合ではなく、すぐにフロントを呼んで、

「とっても素晴らしいお部屋ですが、私は一人なのです。ここは、ちょーっと広すぎませんかい?」と、言ったら、

「何と謙虚な!いちばんいい部屋にアップグレードしたんだから、そんなことを言ってはいけません。Have a nice stay, Sir!」

と、明るく返されてしまった。


やっぱ、この国は意味わかんねーわ。


長々と書いてきましたが、これはですね、最初にカバンをびりびりに破られたところから始まった、わらしべ長者的な話を地で行ったのでした。


そのために、格安で買った帰りのチケットがビジネスクラスになり、混乱した空港でも特別待遇になり、さらにホテルの予約を航空会社に頼んだので、ビジネスクラスの客ということで、ホテルまでが最上級の部屋になったというわけです。


しかし、運がいいのか悪いのかは分かりません。第一スリランカに泊まるつもりはなかったのです。4泊もそんな宮殿みたいなところに1人でいると、アナと雪の女王のエルザみたいになってきます。


ちょっと例えが分かりませんね(笑)

拾ってきた俺の泊まった部屋の写真を見てください。


凄い部屋でした。目の前の海に陽が沈むので、西日がもろに入ることから、スタッフが来て木製のブラインドを降ろすのですが、窓がいくつもあるのでそれだけで一仕事です。




現在のこのホテルのHPをみると、スーペリアとジュニアスイートだけになっていますが、ジュニアスイートが90平米なのですが、俺の泊まったのは30年前なのでスイートルームを2つに分けてジュニアスイートにしたのだと思います。



つまり180平米ということになります。嘘みたいですが、建物がコの字型になっているのですが右半分全部が俺の部屋でしたもん。





つぃでに、これは渡り廊下がファサードになっているレストランともう一つテラスのレストラン。



これはプール。脇にバーがありました。向こうはインド洋です。




翌日はホテルと周りを散歩しましたが、3日目はコンシエルジュにコロンボ市街を観光したいと言ったら、早速、運転手が来て、色々案内してくれました。


運転手が、観光後に自分の家を見ていかないかというのです。え?と思いましたが、まあいいかなと乗っていたら、家族みんなで俺を待っていて、ご飯を出してくれました。観光っちゃ観光ですけど、運転手のご家庭で、ランチを食うってのも凄い話です。


スリランカ滞在中にいろんなスリランカ料理を食いましたが、なんせどれを食ってもカレーでした。でもそこのお宅で出てきた薄い煎餅のようなパンは美味しかった。タダ食いはいけないのでチップを上げなきゃと思って、10USDあげました。


そうしたら、運転手さん喜んじゃって、ホテルに帰る途中で、かわいこちゃんはどうだ?と聞くのです。キャバレーみたいなところか?と聞いたら、どうも違うので、その気にならないから要らないと断りました。そしたら、あーーー!とニターっと笑って、お客さんそっちの方もありますよー???というので、後ろから頭を叩いてやりました。


その夜は中秋でした。スリランカは仏教国で、満月の日はお祭りなのです。ホテルの前のビーチはお祭りのまっ最中。屋台が沢山出ていて、結局誰とも言葉は通じなく、よく分からないけど人が俺にアイスクリームとか揚げた何かをくれるんです。何故だろう?よく分からないまま10円あげました。


ホテルのレストランで飯を食おうと思ったのですが、もうカレーは嫌なので、魚料理はないかなと思い、もの凄く親切なオッチャンの給仕に、魚ある?と聞いたら、今日はツナがあると言われたので、じゃあツナのソテーと頼んだら、大げさではなく、マグロを縦に輪切りした洗面器くらいの切り身がカレー味で出てきました。


もうちょっとで、テーブルをひっくり返しそうになりましたが、我慢して食べようと試みたのですが、そんなもの、食えるか―!


ところで、そのレストランはビュッフェみたいになっていて、本当は自分で好きなように取るのでした。他の客が誰もいなかったので分からなかったのですが、後で気づきました。

俺がいつまで経っても自分で取りに行かないので、その親切なおっちゃんが、結局、本日のツナカレーを丸ごと持ってきてくれたのでした(笑)


それにしても、量が多すぎるでしょう!と言ったら、自分は鳥目だから、夜は何も見えないという、もの凄い斜め上な返事が返ってきました。


給仕無理じゃん?


もういい。紅茶とスイーツと言ったら、またまた巨大なケーキが出てきて、俺も学ばないなと非常に後悔しました。


さて紅茶は英国式に仰々しく大きなトレーで出てくるのです。


黙って見ていたら、紅茶を注いでくれて、ミルクを入れて、何も聞かずに砂糖を、1杯、2杯、3杯、4杯、5杯と入れるんです!しかも時々砂糖をこぼしちゃうのです。そのたびににこっと笑って鳥目だから夜は目が見えないと言うのです。


砂糖はもういらないよと言ったら、この方が美味しいから!と言われ、今度はスプーンで混ぜてくれるんですが、カップを持ち上げて、スプーンをぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる・・・。

吹きだしてしまったのですが、何故だか、泣きそうになってしまいました。


4日目。一体何が壊れたらこんなに飛行機が直らないのでしょう???実はスリランカ国内で内戦が起きていたのでした。それで兵士が溢れていたのでした。もう出かけるのは止めてプールに一日いました。バーで酒を飲んで、またプールにもどり。部屋に帰ってベッドに横になって。


淋しいので、とうとう、パリでお土産に買ったブタのぬいぐるみを出して喋ってましたが、そのままブタを抱いて寝てしまいました。


人の気配がしてふと目覚めたら、ルームサービスが勝手に部屋に入って、ブラインドを降ろしていました。


「起こしましたか、サー?」


男が俺の方を微笑みながら見ていました。

そのサーは、寝ぼけたままブタのぬいぐるみを抱いています。

本来ならば、びっくり飛び起きる場面でしょうが、微笑みに守られるように、時間が止まってしまいました。

ブラインドの隙間から夕陽が差し込んでいました。潮騒が聞こえます。


返事もせずに、また眠ってしまいました。


今も夢の中でそのシーンが出てくるのです。そして、どういうわけか山口百恵の「横須賀サンセット・サンライズ」という曲が流れます。


あの日とおんなじあの場所で

もう一度夕陽見つめていたい・・・


横須賀サンセット・サンライズ/Sony Music Direct(Japan)Inc.

¥257
Amazon.co.jp




にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ
にほんブログ村