今日、俺のジムのパーソナルトレーナーから、メールで、「自信を持つには、今に満足することが必要ですか?」と質問が来ました。
俺のトレーナーは彼が思っている以上に、凄く優秀なんです。
俺は今年の6月、実家で、どでかい社長椅子を3階まで運んだら、階段の途中で椅子が嵌まり込んでしまい、にっちもさっちもどうにも動かなくなったのを思い切り動かしたら、腰を痛めてしまい、さらにその直後に東京に戻り、痛いのを我慢してジムへ行き、ジェットコースターの安全バーみたいな腹筋マシンをやったら、それっきり、3週間動けなくなりました。
その痛さたるや、これまでのぎっくり腰とはわけが違うので、MRI(人生5度目)に入ったら、椎間板が2か所損傷して1か所はヘルニヤになっていたのでした。
整形外科の主治医はスポーツドクターで、とても繁盛しているクリニックですが、俺がジムに行きたいと言うと、最初は冗談だと思われたのですが、パーソナルトレーナーをつけるならばジムに行ってもいいと言われました。
さて、ジムまで行くのも大変だったのですが、ボロボロな感じでジムで状況を説明したら、大丈夫ですよ!と言ってくれたのがそのトレーナーです。
ところが、そのトレーナーとの最初のセッションで、座って行うマシンは全てドクターストップだったので、人生初のベンチプレス(ベンチに寝てバーベルをあげる)をやったら、翌日から腰が悪化して、また動けなくなってしまいました。
2日後に次の予約を入れていたのですが、2日経ってもまだベッドから動けなかったので、トレーナーに電話をして、動けないから行けないと告げたら、なんと、歩けないならタクシーででも来いと言われたんです!
この野郎、スゲーことを言うな!と思いましたが、考えたら客にそんなことを言う人は居ないですよね。なんだかむくむく好奇心が湧いてきて、頑張ってタクシーでジムに行きました。
着替えることもできないので、そのままの格好でジムに着いたら、すぐにストレッチとマッサージを延々とされたのですが、なんと、普通に歩いて電車で帰れるまでに痛みが消えました。
主治医にそれを言ったら、そんな優秀な人はめったに居ないから絶対に放しちゃダメだよと言われました。
言われるまでもなく、俺もスゲーなと感心したのでした。
それから約1ヶ月後に再び親父が入院して実家に戻るまでの間、時々、こいつ、ドSかなと思ったりしながらも、真面目にトレーニングをしました。
主治医に実家に帰ることを告げたら、俺に、もうこのまま回復する気がするけど、よく頑張った!中年オヤジの星だ!鏡だ!と褒められ、先生から握手を求められました(笑)
さて、実家でもジムに入会し、教えられた通りに続けています。
現在4か月ですが、ベンチプレスは最初はバーだけ(20Kg)がまともに上がらなかったのですが、今は10回×3セットならば、55Kgなら一人で余裕です。
これは普通にベンチプレスをやっている人からするとお子様重量なのですが、そんなことは全く構いません。だって20Kgから始まったわけですから。
さて、そのトレーナですが、俺は実家から何回かトレーニングに関して質問をしたのです。
彼はプロなので、業務に関することは当然対価があり、メールでの質問といえども時間を奪っていることに対して悪いので、もし俺に何か質問があるならば、お返しにプロとしてお答えしますと告げていました。
因みに俺の職業は心理カウンセラーです。
それで、冒頭の「自信を持つには、今に満足することが必要か?」との質問が来たのです。
さて、「自信を持つには・・・」と書いてあるということは、現在、彼は自信が持てていないということです。
こりゃ、いかんなあと思っているのですが、そもそも「自信」という言葉は、我が国において、必ずしもいい響きを持っていないですよね。
「あの人は自信家だ」というと、たいていの場合「テング」「高慢ちき」(どっちも昭和世代の言葉かな?)という意味合いが、ちらりと見えます。
逆に「自信がない」というと、謙虚だという風に聞こえたりもします。
突然ですが、浅田真央ちゃんと羽生君の違いはなんだったと思いますか?
真央ちゃんの「仮面舞踏会」「鐘」は誰も到達できない最高傑作だったと俺は思っているのですが、何故か結果はイマイチでした。
羽生君の「オペラ座の怪人」は、これまた誰も到達できない最高傑作だったと思っていますが、最悪のコンディションの中、グランプリファイナルは鳥肌もののぶっちぎりで優勝しました。
これは「自信」の差だと思っています。
俺の思う「自信」とは、明日は今日よりよくなると信じることができて、未来の自分に対する明るい期待を持てることだと思います。
俺のトレーナーが言った質問の意味は、ありていに言うと、自信とは自己満足かということです。YESでありNOなのですが、それは、自信を持つためには、今の実力を正確に知らなくてはいけないからです。
正確に今の実力を知らない限り、本当の満足は得ることはできないのです。それがいいことでもたとえ悪いことでも、正確に評価すれば心は満足します。
例えば、自分なりに頑張った試験の結果が40点だった!ガーン。ダメじゃん!
しかしそれが現実です。採点ミスがあるわけじゃなければ、突き付けられた40点という今の実力を受け入れざるを得ませんよね。
ところがこのように悪くっても、自己評価が正しいと、心は満足できるのです。
「おい、俺君。おめーは一体、何点取れると思ってたのさ?」
「いくらなんでも50点はいけたんじゃねーか?」
「ほう、テストは100点満点だぜ?目指したのは50点ってか?がはは、自分がバカだとよく分かってるじゃねーか」
「うるせ!」
「50で40なら、あとたった10点だぜ?あと60点は無理だろうがな」
「まあ、無理だーな。じゃあ次は50点だな」
「さすが、スタンダードが低いねえ」
「いーじゃねえか。バカなりに運動できるし、腹筋割れてるしよ」
自信とは自分を信じると書きます。明日はきっと今日よりよくなるに違いないと、自分に対して信頼関係が築けていることが自信なのです。
よくなる根拠がないと言っている人は、それは正しい自己認識ができていないのです。それで心が満足できないので、根拠がないと思ってしまいます。
真央ちゃんも同じですよ。彼女の場合は逆に、自分が最高傑作だという正しい自己認識がどうしても持てなくなってしまったのでしょう。可哀想だったし不運でした。
ただ、テストなら分かりやすいですけど、世の中、点数化できないものの方が多いものです。
そうすると人の評価と自己評価が違ってくるものですが、これは何故でしょう?
実は同じはずなんですよ。よーく考えてみて下さい。何かに目を閉じ、何かに耳をふさぎ、余計なものを見て、余計なものを聴いて、一致しないと思っているのです。
正しい評価を受け入れなくてはいけません。いいことでも悪いことでもです。ダメならダメで、いいならいいで、実際はとても難しいことですけどね、でも、正確に受け入れたら、心の満足度は確実に上がります。
心の満足度が上がると、ようやく自分との信頼関係が結べるのです。
そして、未来の自分に対する期待感が、常に持てるようになるのです。
心とは本来そうあるべきなのですよ!なぜならば、心は死ぬまで成長するからです。
パーソナルトレーナー君、先ずは今の実力をあるがままに認めてあげましょう!
君に難があるとすれば、それは俺が思うに、どこかに自信のなさがあり、見かけ(ルックス)がイマイチぱっとしないということです。これは、君が自信を得ると、顔つき体つき人当りなど、すべて変わりますよ!いくらでも、どうにでもなります。
先ずは、それを正しく認めましょう!
これが君への答えです。
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