2020/09/26  記載更新

 

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 続日本紀の762年(天平宝字6年)の第1回目,3月の条から始めましょう。

 本ブログは講談社学術文庫を参考にしており,具体的な記載は中巻P280からです。

 

 

 

 

【3月29日】

 参河・尾張・遠江・下総・美濃・能登・備中・備後・讃岐など九ヵ国に旱害があった。

 

 

 三河と尾張は現在の愛知県,遠江(とおとうみ)は静岡西部の旧名ですね。

 下総(しもうさ)は千葉と茨城を跨いだエリア,美濃は岐阜南部,能登は石川県の半島部です。

 備中は岡山西部でその隣が備後,こちらは広島県西部になりますね。

 讃岐はうどん県香川です。

 

 こうしてみると,広範囲に渡って旱害が発生していたようです。

 旧暦から新暦に読み替える場合,閏月などの問題もあり一概には言えませんが,おおよそ3週間から50日くらい後の日付になります。

 だから,旧暦3月29日ですと,新暦の4月下旬から5月上旬位をイメージいただければよろしいかと思います。

 

 この季節は稲の苗がちょうど芽を出す頃であり,この時期に旱害があったとすると秋の収穫に多大な影響を及ぼすことが予見されます。

 

 

 

【4月8日】

 河内国狭山池の堤が決潰し,のべ八万三千人を動員して修造した。

 

 

 『続日本紀@761年 part 2』の5月23日の条で,畿内の溜池や堤防のパトロールをした記事をご紹介しました。

 また,『続日本紀@761年 part 3』の7月19日の条では,遠江国の堤防決壊が記載されていました。

 そして,今年は畿内で堤の決潰が発生してしまいました。

 

 

 狭山池は,行基が造営した日本最古のダム式溜池と言い伝えられています。

 (古事記・日本書紀にも名前が登場することから,すでにあった狭山池を行基が改修工事したというのが実態だと考えています。)

 

(Wikipediaより,現在の狭山池)

 

 

 当時,川をせき止め,大きな溜池を作るというのは相当の土木技術のレベルが必要です。

 当然堆積物の除去はできないから,長期維持しているうちに決壊することはそれほど不思議ではありません。

 

 行基によって行われた改修工事が731年だったので,ちょうど30年後に決潰したということになります。

 幾多の試練があったでしょうが,1300年以上前のダムを改修し続け,現在でも使っているってかなりすごいことですよね。

 

 

 

【4月9日】

 遠江国で飢謹があったので物を恵み与えた。

 

【4月14日】

 尾張国に飢饅があり、物を恵み与えた。

 

【5月4日】

 京および畿内・伊勢・近江・美濃・若狭・越前などの国が飢饉となり使者を遣わして,物を恵み与えた。

 

【5月9日】

 美濃・飛騨・信濃などの国で地震があった。損害をこうむった家ごとに穀二石を賜わった。石見国でも飢饉があり,物を恵み与えた。

 

【5月11日】

 越前国で飢饉があり物を恵み与えた。

 

 

 畿内含め中部エリアの広範囲で,飢饉が発生しました。

 旧暦4月中旬~5月上旬だと,新暦に直せば5月中旬~6月下旬くらいでしょうか。

 

 秋の収穫の時期まで,前年度に収穫した米を食べ繋ぐ必要がありますが,それが尽きてしまったということなんでしょうね。

 

 

 奈良時代の庶民の食生活は,1日1食で玄米を炊いた飯に,海藻汁,野蒜のお浸しに塩といった非常に質素なものでした。

 1日500kcaにも満たず,カロリー不足なのは一目瞭然で,当時の一般庶民にとって飢餓はありふれた事象だったのです。

 

 一方で,貴族は,アワビや伊勢海老といった海鮮,カモなどの鶏肉など,庶民とは比べ物にならない豪華な食事でした

 高級貴族の食事の品数は15品にもなります。

 

 なお,675年に天武天皇が肉食禁止令を出して以来,仏教の定着もあり,獣肉は食卓に並びませんでした。

 料理に味付けはせず,基本的に卓上に用意された醤・未醤といった高級調味料をつけて食べます。

 (醤は醤油の原型で,未醤は味噌の原型,まだどちらも存在しない)

 

 日本食の歴史といったものも,そのうち取り上げたいテーマですね。