本日は,続日本紀の761年(天平宝字5年)の第2回目,3月19日の条から始めましょう。

 本ブログは講談社学術文庫を参考にしており,具体的な記載は中巻P266からです。

 

 

【3月19日】

 

 京戸の百姓は,たくみに課役を忌避して,畿外の国に流浪し,それに馴れて常態としており、その数は実に多い。そこで彼らを、それぞれの所在地に定着させて,口分田を支給した。

 

 

 畿内の農民は,続日本紀の記載から,頻繁に租税免除がなされているように見受けられるため,畿外の農民に比べ恵まれているのではないかと思っていましたが,畿内の農民ですら租庸調の税負担に耐えかね逃亡するのが常態化していたのでしょうね。

 

 逃亡農民を戸籍のあるムラに連行し,そこで農作業に従事させるのが律令制の本旨なのでしょうが,あまりにも数が多いため,逃亡先のムラの戸籍に加え,そこに改めて口分田をあてがうという措置にでたようです。

 

 

◆◆◆◆◆ 口分田と租について ◆◆◆◆◆

 

 口分田とは,戸籍にもとづき民衆に一律に支給された農地で,6年に1回,6歳以上の男子に2段(24アール),女子には男子の3分の2を支給すると決められていました。

 1アールは100㎡なので,縦40m×横60mの広さの農地を想像してもらえればいいでしょう。

 農作業したことある人ならわかってもらえると思いますが,これを鍬や鋤のみで管理するのはかなり大変です。

 

 

 口分田を耕作できるのは一代限りで,耕作者が死ねば国に返し,別の耕作者に新たに割り当てられる仕組みでした。

 遺産相続が認められている現代においてすら後継者が見つからず,休耕田があちこちに発生して問題になっているくらいです,当然国に取り上げられることがわかっている土地を高齢になってまで手入れしようとするモチベーションは働きません

 そこで,723年に三世一身法を公布,開墾した土地は三世代に限り私有を認めることとしました。

 

 でも,3世代限定なので,結局は孫の代で同じ問題に直面します。

 743年,聖武天皇は,開墾地の永続私有を認める代わりに輸租田として朝廷に報告し,納税義務を課すこととしました。これを墾田永年私財法といいます

 ただ,三世一身法の制定(723年)から墾田永年私財法の制定(743年)の間は20年しかなく,この間に祖父母から孫に開墾地が継承され,それが朝廷に取り上げられた,ということはいくら平均寿命の短い奈良時代でも考えにくい。

 とすると,実際には,開墾地を大量所有していた貴族や寺社が,所有権を認めるよう朝廷側に圧力をかけたと見るほうが妥当なようなきがしますね。

 この墾田永年私財法によって,律令制の根幹をなす公地公民制が瓦解し,中世荘園制のとば口が開かれました

 

 

 租は口分田の収穫に課される税金で,収穫量の3%を諸国に納めることとされていました。

 ポイントは,「収穫量の3%」という点で,品種改良や施肥技術,自然災害への備えのなかった奈良時代には,豊作と不作の差が激しく,続日本紀にもしょっちゅう自然災害による農業被害や飢饉の発生の記事が出てきますから,収穫量を課税標準とすると財源が極度に不安定化します。

 そこで,租として収めた稲は,中央政府に納入せず,飢餓発生時の備えとして諸国で保管されました。

 

 律令制導入時に,なぜこのような税金を円滑に導入し得たのかは色々な説がありますが,もともと農民には土地の神様(の祭祀をする豪族)に対し収穫の一部をお供えする風習があったのではないか,その延長線上として租が受け入れられたのではないかと考えられています。

 弥生時代に農村共同体が地域の高床式倉庫に収穫を運び込む,その慣習の延長線上に租がある,というわけです。

 そう考えると,租を地方財源とするのもすんなり理解できるのではないでしょうか。

 

 

 実際に,税金として機能していたのは(公)出挙の方で,これは国司が租として集めた籾を春に農民に貸し付け,秋の収穫時に利息を付して取り立てるもので,利息は貸し付けた籾の3~5割とナニワ金融道も真っ青のブラック金融でした。

 出挙は貸付額に対する利息のため,租とは異なり実際の収穫量に影響されない安定財源であり,地方財政を預かる国司にとって見れば非常にありがたい徴税手段だったわけです。

 この出挙の制度が時代を下ると年貢になり,また稲の貸借を通じ金融が発展していきます。

 

 

 もう一つ,口分田と租について考える上で大事なポイントは,口分田は農民の申請により交付してもらうのではなく,国から強制的に割り付けられ,その結果農民を土地に縛り付け管理する制度でもあった,ということです。

 律令国家日本では,国民を農民として管理しようとする意図が強く,志摩地方で漁業を生業に生計を立てている海人に対しても,遠く離れた伊勢・尾張の口分田をあてがっています。

 

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 

【3月24日】

 

 葦原王は刃で人を殺した罪によって,竜田真人の姓を与えられ、多撤嶋に流罪とされた。王の子の男女六人も王に随行させた。 …… 王は天性凶悪で酒の店に遊ぶことを喜んでいた。ある時,御使連麻呂と賭をしながら酒を飲んでいて,俄かに怒りだし,麻呂を刺殺して、その太股の肉を切りさき,胸の上にのせて膾(細く切った生の肉)にした。 …… 天皇は葦原王が皇族の一員であるため,法の通りに処罰するに忍びず,王名を奪って流罪に処した。

 

 

 とんでもない皇族もいたものです。

 でもこういった記事は歴史書原典を当たらないと知ることができないので,やめられないんですよね。

 

 葦原王は,天武天皇の曾孫/刑部親王の孫/山前王の子なので,淳仁天皇から見れば甥っ子にあたる関係でしょうか。

 (家系図は こちらの記事 を参照してください。)

 

 膾とは,生の獣肉を細かく刻み,ネギなどの薬味や調味料で和えて食すもので,ちなみに魚肉を使ったものは鱠と違う漢字を当てます。

 日本でも古くから食されており,この膾が後代になり野菜を使った「酢の物」になりました。

 ちなみに,「人口に膾炙する」は,膾と炙(つまり焼き肉)は美味しい食べ物の代名詞であり,みんなが食べたいもの,転じて「みんなにもてはやされる」といった熟語になりました。

 

 「膾にした」というくらいだから食ったんですかね……。

 

 

 この当時,やはり法の下の平等なる観念はなく,皇族は人を惨殺しても島流しになる程度で済んだようです。

 ただ流石に皇族の籍に残しておくことはできず,臣籍降下させてますね。

 本文にある「多撤嶋」は種子島のことです。

 

 

 

【5月23日】

 

 散位で外従五位下の物部山背・正六位下の日佐若麻呂を遣わして,畿内の溜め池・井堰・堤防・用水路の適地を視察させた。

 

 

 

 散位とは,位階だけで官職のない人を言います。

 

 現代風に説明すると…

 

 会社で給与計算等に使うランク(仮に平社員は10~5等級,主任は4等級,係長は3等級,課長は2等級,部長は1等級としましょう)があり,それを各社員に割り当てているとしましょう。

 

 このランクはその人の実績などを基準に決めるのが建前ですが,基本降格はなく年功序列での一律評価が実態となっています。中には,取引先の社長のご子息もいて,これといった業績もない中でランクだけ上がっていってます。

 

 でも,会社には用意できる管理職ポストの数に限りがあり,ランクが4等級になっても主任になれない平社員がいて,中には退職間際の平社員なんだけどランクだけは2等級なんて人もいたりします。

 

 こういう位階(社員の資格・ランク)はあるけど,官職(管理職ポスト)のない人が散位です。

 散位は,地方役人の子弟などに多く見られました。

 

 

 当時の朝廷でも,灌漑排水工事の重要性は認識していたようですね。

 

 

 

【6月28日】

 

 御斎会に供奉した各種工人の将領らにその働きに応じて位階を与え,あるいは勤務評定の対象とする。まだ官人として登用されていないものは,いま勤務している官司で勤務評定を受けられる地位にあることを認める。

 

 

 この「御斎会」とは,前年に崩御した光明皇太后の一周忌の斎会のことで,3週間前の6月7日,法華寺の阿弥陀浄土院で行われました。この阿弥陀浄土院は,この斎会のために新たに設けられたものです。

 淳仁天皇は,一周忌のみならず,毎年山階寺(興福寺)で梵網経を,法華寺で阿弥陀仏の礼拝をさせるよう命じています。

 また,淳仁天皇は,「皇太后の一周忌の御斎会に供奉した」ことを理由に,たくさんの官人を昇進,新規登用しています。

 

 淳仁天皇のこの厚遇は,藤原家(藤原仲麻呂)・孝謙上皇への配慮であり,それだけあらゆる利害関係者に気を使わないと,孝謙上皇との対立のある朝廷をうまく切り盛りできなくなっていたのではないかと思われます。