本日2本目の更新です。
続日本紀の762年(天平宝字6年)の第1回目,正月の条から始めましょう。
本ブログは講談社学術文庫を参考にしており,具体的な記載は中巻P277からです。
【1月1日~】
この年も,保良宮の造営が未了のため,朝賀の儀式は行われませんでした。
今でも,元日に今上陛下始め皇族の方々が皇居宮殿のベランダにみえられ,国民が国旗を振って祝意を表する,一般参賀を行っていますが,このときから続いているんですね。
ただ,奈良時代の参賀は,宮廷内で官吏に向けて行われるものでした。
その後,3週間程度かけて,上級官僚に対する位階の昇進や,新たな役職の授与がなされています。これも毎年恒例です。
【1月28日】
東海・南海・西海などの三道の節度使が用いる真綿入りの上着と冑をそれぞれ二万二百五十具宛を大宰府において造らせた。その製法はすべて唐国の新様式にした。そこで五行の色(碧・赤・黄・白・黒)に色分けして,皆甲板(よろいの板)の形を画き,碧地の場合には朱色で,赤地には黄色で,黄地には赤で,白地には黒で,黒地には白で,四千五十具ごとに一揃いの色とした。
『続日本紀@761年 Part 3』の8月12日の条に記載していますが,遣唐使の藤原清河を唐に出迎えにいった高元度が,唐の皇帝から兵器の見本一式を受領し,日本に持ち帰っています。
大和朝廷は,早速翌年の生産分から唐の優れた軍事技術を真似て,自国の軍備を拡張しようとしています。
これは想像ですが,唐の軍備を真似るのは,性能進化に役立つのみならず,敵方に「俺のバックには唐がいるんだぞ」という威圧にもなったのではないでしょうか。
ここでも「五行」が出てきます。
『続日本紀@761年 Part4』でもご紹介しましたが,五行とは「万物は木・火・土・金・水の5種類の元素から成る」という考え方であり,各要素には「相乗」と「相克」の関係性が想定されています。
五行の5要素には,それぞれ色も指定されており,
【木】 → 碧(緑)
【火】 → 赤
【土】 → 黄
【金】 → 白(金・銀)
【水】 → 黒(青)
となります。
土が黄というのも,黄土平原をいただく中国ならではの発想といえましょう。
ちなみに,碧は「緑がかった青」のイメージで,青とは別物です。
元来,日本では青と緑がずっと混用されてきており,その名残は青信号(色としては緑),青りんごなどに見られますね。
もっというと,日本語古来の色は「赤」「黒」「白」「青」しかなく,その「青」は現代で言うところの,水色~青~緑まで含む広い概念であったと考えられています。
例えば,この「四原色」のニュアンスを汲み取り,古代日本人は新たな言葉・意味領域を形作っています。
赤は「明るい」,黒は「暗い」,白は「はっきりと(しるし)」,青は「淡い」ですね。
私は陰陽五行説を詳しくは知りませんが,少なくとも奈良時代の朝廷内など知識階層は,政務・軍事の基本方針として「陰陽五行説」を参照していた,ということは理解しておかなきゃならないでしょう。
【2月2日】
従一位の藤原恵美朝臣押勝に正一位を授けた。
【2月25日】
大師の藤原恵美朝臣押勝に近江国浅井・高嶋二郡の鉄穴(鉄鉱石のとれる 鉱山)を各一ヵ所賜わった。
前年の稲百万束だけじゃまだ足りないとばかりに,位階は最上位に上げるわ,鉱山も与えるわ,とてつもない厚遇です。
ちなみに,従一位という位階は,死後に追贈されるのが普通で,生前に叙位されたのは恵美押勝含めても6人しかいません。
① 藤原宮子
藤原不比等の長女,文武天皇の夫人で,聖武天皇の母親
② 橘諸兄
奈良時代の政治家で,当時の絶対的権力者。
③ 藤原仲麻呂
奈良時代の政治家で,本記事でも紹介しているとおり,淳仁天皇を傀儡とする絶対的権力者。
④ 藤原永手
奈良時代の政治家,藤原房前の次男で称徳天皇時代の筆頭官僚で,称徳天皇崩御後の皇嗣問題で光仁天皇擁立の功績を評価され叙位。本ブログでも後日紹介することになるかと思いますが,絶対権力者という感じではないです。
⑤ 源方子
娘の藤原得子が鳥羽天皇皇后で近衛天皇の母であることを理由とした叙位。
⑥ 三条実美
尊王攘夷派の筆頭公卿で,明治維新後も右大臣・太政大臣等を歴任し,その功労から今際の際に正一位を叙位(ほぼ追贈と同じ位置づけ)。
だから,絶対的な権力をふるい,最高位の官位を叙位された(実際にはお手盛りの可能性大)のは,日本史上,橘諸兄と藤原仲麻呂の2人しかいません。
相当な厚顔無恥であることは間違いないでしょう。