本日は,続日本紀の761年(天平宝字5年)の条をご紹介しましょう。

 本ブログは講談社学術文庫を参考にしており,具体的な記載は中巻P261からとなります。

 

 

 

 

【1月1日】

 

 この年の新年の朝賀は見送られました。

 新しい宮廷(保良宮)が未完成であったためです。

 

 

 

【1月7日】

 

 この日,陰陽寮からの奏上により,淳仁天皇は居所を小治田岡本宮に移ることにしました。

 既に奈良時代から陰陽師の影響は大きかったようです。

 なお,11日には平城京に帰ってきていますが,その際にも兵部省の庁舎を御在所としたと記載されており,本来の朝廷の主は孝謙上皇であることを匂わせる記載になっています。

 

 

 

【1月9日】

 

 以下,抜粋です。

 

 美濃・武蔵二国の少年それぞれ三十人宛に新羅語を習わせた。新羅を征討するためである。

 

 続日本紀760年 Part4 でご紹介しましたが,新羅とはずっと険悪な関係が続いています。

 前年にも新羅の使節団が上表文を持ってこないことを理由に追い返しており,当時の朝廷内では着々と戦争準備を進めています。

 

 当時,新羅から亡命してきた渡来人を武蔵国に集団移住させており,新羅国に繋がりのある人材の登用といった狙いもあったのでしょう。

 美濃国にも,霊亀元年(715年)に新羅人74人が移住しており,朝鮮半島とつながりのある地域になっています。

 

 

 

【2月3日】

 

 詔勅違反にかかる記載がありましたので抜粋します。

 

 越前国加賀郡の少領である道公勝石は,私稲六万束を出挙した。これは私出挙を禁じた勅に違反するので,利稲三万束を没収した。

 

 

 史書に記載されているくらいですから,当時の朝廷内でも本事案は話題に上ったのでしょう。

 過去に禁令が出ていることを見ても,当時の地方官僚は春に種籾を個人的に貸し出し,秋に利息を含め庶民から稲を取り立てることで私腹を肥やしていたことがうかがわれます。

 以前の記事でも若干触れましたが,日本においてはこの稲の季節を跨いだ貸し借りが金融の始まりであり,また公私間の稲の貸し借りがやがて年貢・地租となり,戦前までの日本の税制を形作っていきます。

 

 

 

【3月1日】

 

 この日,太政官より,外六位以下の官位しか持たない諸国の郡司について,その子息が士官する事ができずに困っていることから,郡司の継嗣に限り任官を認める特例を設けるよう奏上があり,淳仁天皇がこれを裁可しています。

 

 

 律令制の中でも,高級官僚の子息は自動的に任官できる制度がもうけられていました。

 これを蔭位の制といい,まぁ,今風に言えば上級国民の優遇制度ですね。

 

 律令の本家である中国には,科挙に合格した優秀な官僚が皇帝を補佐しながら政治の実権を握っていたイメージがありますが,その実,唐中期までは門閥貴族の子弟を優遇する蔭位の制が存在し,無能な2世・3世官僚が朝廷で幅を利かし,科挙官僚と対立していました。

 

 中国では,結局,唐後半になると科挙官僚が優勢となり,門閥貴族は荘園制崩壊とともに力を失っていきます。

 

 一方で,日本は,近代に至るまで公的な官吏任用試験は実施されず,家業として特定分野の技術を特定貴族が独占する体制が続いていきました。

 

 このような,実力主義の排除は,日本の伝統芸能の家元制に端的に現れておりますね。

 

 近世に入っても,商家では,自分の子供に商才がないとみるや,優秀な人間を養子にもらうということで幾分実力主義の要素を取り入れていますが,やはりそれでも家が仕事を継いでいくといった考え方からは離れられないようです。

 

 バブル崩壊時には日本的雇用形態(終身雇用・年功序列)が否定され,実力主義の導入が声高に叫ばれましたが,現在の会社経営でどこまでそれが実現されているか。

 

 少なくとも,自分の周囲を見渡すと,実力主義が徹底されているとは言い難いですね。