続きを読みましょう,今回の記事を含めて,あと2~3回で読了になるかな?

 

 今日は,ペスト流行後の海外貿易・海上交易から,ご紹介することにしましょう。

 

 外国貿易についていえば,といったところで,実はあまり言うことはないのである。なぜなら,ヨーロッパ中の貿易国がどの国も例外なしに我が国を警戒したからである。フランスもオランダもスペインもイタリアも,いずれもその港を閉ざしてイギリス船の入港を認めないばかりか,取引関係さえも拒絶したのである。いや,オランダは特別であった。というのは,当時オランダとは仲が悪く,激烈な戦争を交えていたからである。

 

 本シリーズの第1回 で1665年前後のイギリス史を簡単に年表順に並べていますのでご覧ください。

 

 イギリスは英国国教会を設立しカトリックから独立,オランダはプロテスタント達がスペイン・ハプスブルク家に対し反乱を起こして独立を勝ち取った国ですから,カトリックの覇権国家であるスペイン・ポルトガルと対決する上で共闘関係にありました。オランダは,スペインとの独立戦争を戦う一方で,オランダ東インド会社を設立しアジアの香辛料貿易の権益をポルトガルから奪取することに成功します。イギリスはイギリスで,エリザベス女王の指導のもと,スペインが運行する新大陸=ヨーロッパ間の貿易船を私掠船で次々に拿捕し,財宝を奪い取ります。こうして,16世紀後半から17世紀前半にかけて,スペイン・ポルトガルから貿易権益を徐々に切り取りながら,イングランド・オランダ連合が覇権国家として頭角を現していきます。

 

 ただし,イングランド・オランダが仲良くやっていったかというと,実はそうでもありません。やっぱりジャイアンが世界に2人並び立つことはないわけです。東アジアの香辛料貿易を巡って,イングランドとオランダが対立を始め,1623年にインドネシア・モルッカ諸島のアンボイナ島にあったイングランド商館をオランダ人が急襲し,全員殺害する事件がおきました。これをアンボイナ事件といいます。

 

 ちなみに,このとき虐殺されたのは,イギリス人10名,ポルトガル人1名に,日本人9名の計20名でした。なんで日本人がいるかと言えば,日本では戦国時代が終わり,徳川幕府の太平の世に移り変わるにつれ,活躍の場を求め海外に渡る武士たちがいたこと,また日本に来た宣教師が傭兵として日本人を買っていった(ようは奴隷貿易)という事情があります。東アジアから追い出されたイギリスは,インドに進出することになります。

 

 オランダは17世紀前半に海上覇権を確立します。彼らは,世界各国の貿易を中継する運送業で巨万の富を得ます。これによってイギリスは自国の植民地との貿易ですらオランダ商人が独占するようになり,イギリス国内ではオランダに対する怒りが高まります。まず,イギリスは,1651年に航海条例を定め,ヨーロッパ以外の地域からイギリスへの輸入はイギリス船に限定することとし,オランダを締め出しにかかります。次にやったことは,東アジアから貿易品を満載で積んできたオランダ船を英仏海峡で拿捕しまくりました。またしても海賊行為です。

 

 翌1652年から英蘭戦争が勃発し,断続的に数次戦われますが,これによりオランダの中継貿易は徐々に打撃を受け国力をそがれていきます。イギリスは,オランダから海上交易の利権を奪い,その後の世界帝国の礎を築くことになりますが,王位継承でみると名誉革命によりオランダ総督ウィレム3世がイングランド王になったりと,英蘭関係は複層的に展開していきます。

 

 

 

 イギリスの貿易船に対する各国の対応の中でも激烈だったのは,スペイン・ポルトガルでした。

 

 そこの連中は,特にロンドンから来た船といえばなおさらであったが,そうでなくただイギリス船といっただけでも,国内のどの港にしろ入港を絶対に許可しなかった。・・・ 一隻のイギリス船がひそかに荷物を運び上げたが,その中にはイギリス製の羅紗,木綿,カージ織その他があった。するとこれを知ったスペイン人はこの荷物全部の焼却を命じたばかりでなく,その荷揚げに関係した者を死刑にしてしまったというのである。

 

 そもそも,ロンドンにおけるペスト流行は,オランダ・アムステルダムからロンドン在住フランス人に届けられた荷物(にまぎれていたネズミノミ)から広まりましたから,海外貿易が原因です。各国が,感染の流行地であるイギリスとの貿易を制限するのは最もです。

 

 今回のコロナウイルスでは,貨物に付着して他国に感染が広がるというリスクはそれほどないと一般に考えられているので,移動制限対象は人間そのものにとどまっている,ということなのでしょうか。感染症流行時の検疫措置については,今回あまり報道で取り上げられていない気がしますが,ご存知の方がおりましたら教えて下さい。

 

 

 次は,イギリスの国内海上輸送について。

 

 悪疫流行中,2つの特別な産業が水上輸送によって続けられた。ほとんどなんら中断されることなく行われたもので,それがどれくらいロンドンの苦しんでいた市民たちに便宜を与え,勇気を与えたかわからないほどだった。2つの産業とは,1つは穀物の沿岸取引であり,ほかはニューカッスルの石炭業であった。

 ・・・ この2つのうち,前者の方は主として小型船によるもので,ハンバー河沿岸のハル港その他からヨークシア,リンカンシアの多量の穀物を輸送したのである。・・・ サフォク州の沿岸から穀物のほかバターやチーズも盛んに海上を輸送されてきた。それを運ぶ小型船は定期的に取引にやってくるのだったが,それこそどんな事があっても今でもなおベア・キー市場と呼ばれている市場にやってきた。・・・

 二番目の商売はニューカッスル・アポン・タインから石炭を回漕する商売であった。石炭がなければロンドンはひどく難儀したはずであった。当時,街頭ばかりでなく個人個人の家でも一夏じゅう大量の石炭が焚かれていた。どんなに暑い時でも,医者の勧めで焚かれていたのである。・・・

 

 地図は,「旅行のとも,ZenTech」様のサイトから拝借しました。

 

 本文抜粋の『ハンバー河沿岸のハル』とは,上の地図でいうところの『キングストン・アポン・ハル』のことです。ヨークシャーはハルから延びるハンバー河の北部地域一帯を指し,リンカンシャーはハンバー河の南部沿岸地域です。このあたりはイギリスでも酪農や農業などが盛んな地域です。ハルから積み出された小麦は沿岸をそのまま南下し,テムズ川を遡上しロンドンに荷揚げされました。サフォク州は,上の地図でいうとイプスウィッチあたりですね。

 

 ニューカッスルを出向した石炭船は,大型船であったこともあり,航海中にオランダの私掠船に拿捕されることが度々あったそうです。じつは1665年には第二次英蘭戦争が始まっており,1666年にはオランダ海軍がテムズ川を遡上しロンドンを海上封鎖しています。この海賊行為はオランダがペスト感染を恐れたからか,停止します。おかげで,なんとかロンドンまで石炭を運ぶことができました。イギリスの産業革命に石炭は欠かせない要素で,ニューカッスル・マンチェスターがその中心地として発展していきます。

 

 石炭がペストの感染予防に効力があるとされたのは,ペストが臭気により感染すると考えられたからで,石炭を燃やすことで違う臭気を発生させることで「空気を消毒できる」と当時の人々は考えていました。ちなみに,ペスト医師のマスクの鼻先にはハーブ類が詰め込まれていましたが,これも同じ考え方によるものです。

 

 石炭がペスト予防に効くという見解に反対する医者も相当いたようです。なんでも,ペストは冬の間は拡大しなかったが,気候が温暖になるととたんに拡散したから,気温が上がるとペストの感染力が上がるのではないか,というのがその論拠になってました。現代人の感覚からは,冬の乾燥した空気でウイルスが長期間空気中を漂うことができるため,感染が広がる危険があるのは冬なのではないかと思ってしまいます。ペストの場合は,ネズミが巣穴にこもる冬は,ペストの流行も落ち着いたのではないかと思います。

 

 

 本項の最後に,農産物市場の状況をご紹介しましよう。

 

 ありがたいことに,その年は干草の類はだめだったが,穀物と果物は珍しく豊作であった。したがって,豊かな穀物のおかげでパンは安価であった。干草が少なかったため肉類も安価であった。しかし,その同じ理由からバターとチーズは高価であった。・・・ 果物ときたら,ありとあらゆる種類が豊富に出回った。たとえば,りんご,梨,すもも,さくらんぼ,ぶどうなどが豊富に出回った。買い手の少ないのでいつもより安く手に入った。そのために貧乏人は食べすぎて赤痢とか腹痛や食傷を起こすものも出る騒ぎであった。

 

 穀物が豊作=パンが安い,は理解できます。でも,干草が高価(少ない)となぜ肉類が安くなり,乳製品が高くなるのでしょう。普通に考えると高い干草を飼料にするため,肉類も高くなるのではないかと思ってしまいます。当時は,秋口になると,冬の間飼育できる頭数を残し,残りは全て食肉加工してしまったのです。干草が手に入らなければ屠殺する牛や豚の数が増加するから肉類の価格が下落したのでしょう。

 

 ちなみに,この肉は干したり,塩漬けにしたり,腸詰めにして燻したりして冬の間ゆっくり食べていきました。この食文化が生み出したのがソーセージです。でも,さすがに年を越し春が近づく頃には,腐臭がしてとても食えたものではない。だから,人々は肉の臭み消しにスパイスを多用しました。そして,これ以上肉を保存すると食あたりになる消費期限を迎える2月上旬に,そうしたお肉に感謝を捧げ食べきってしまおう,というお祭りが謝肉祭=カーニバルの起源になっています。

 

 当時のロンドンでは,果物といえば林檎・梨・すもも・さくらんぼ・ぶどうが食されていたのがわかります。さくらんぼは,その成分が軟便を誘発するそうで,食べ過ぎると本当に下痢になるようです。