このお話は今年の1月に書籍化した「私が夢見た『優』」。私の大学時代の実話です。
出版に際し、大人の事情によってブログ上から姿を消していたのですが、再UPできることになったので、読めていなかった読者用にもう一度順次公開していきます。
発売中の書籍は、このブログバージョンにいろんなエピソードが追加された完全版になっています。
目次はこちら
私が夢見た「優」
第三十話 「未来が呼ぶ声」 (第二十九話 「夢の続き」はこちら )
「ひさしぶり」
スーツ姿のトモは軽く右手を上げた。
スーツも、トレンチコートも、私が見覚えのないものだった。
あわただしく通り過ぎる人たちが、なぜか幸せそうに映る十二月の終わりの街で、トモと私は再会した。
何度も思い出しては涙して、強く思い出そうとすればするほど、逃げ水のようにぼやけていったトモの輪郭や顔の造作が、私の記憶の中の彼とゆっくりピントを合わせていく。
「元気……やった?」
トモの吐く息が、冷えた夜に白く浮かんでは、溶けた。
ひどい寒気が流れ込むという予報の冬空は、磨りガラスのように澄んで、弓張り月も凍えてちりちり震えているようだった。
「うん、元気やで」
私は真正面で向かい合って話すのが照れくさくて、斜め向かいに移動しながら答えた。
「そか……。じゃあ行こか」
トモの案内で、私たちは言葉少なに歩き出した。
彼が私の携帯に電話してきた日から、三週間ほど経っていた。
「一度食事でも行こう」
という彼の誘いで、私たちは待ち合わせをした。
最初は迷った私だったけれど、ひとつだけ。できればひとつだけ、彼に聞けるのなら聞いてみたいことがあった。
ポツリポツリと近況を伝え合いながら、私たちは並んで歩いた。
ちらりと彼の左手薬指に目をやると、私と付き合っていた頃とは違うデザインの指輪がはめてあった。
「ここ美味いでー。お前、スパゲティ好きやろ?」
「パスタな、パスタ」
「一緒やん」
トモが案内してくれたのは、イタリアンの店だった。
木組みの椅子に、真っ白なクロスがかけられたテーブル。
そのクロスにライトが反射して、眩しかった。
店内は間接照明主体で薄暗く、決して耳障りにはならないBGMがゆっくりと流れる中、ひとつひとつスポットライトで浮かび上がるテーブルでは人々があたたかいものを分け合うように、微笑みながらフォークやナイフを動かしていた。
「雰囲気いい店やな」
オーダーのあと、私は言った。
「そやろ。……ここに来るはずやってんで?」
「え?」
「お前が、引っ越して行った日。ここに食べに来るはずやってん」
あぁそういうことか、と私は思った。
水の入ったグラスの縁がキラキラとしているのを見つめながら、再びトモと同じ時間、同じ場所にいる不思議を思った。
「あ、タバコ吸ってええで」
いつもトモは、食べ物屋のテーブルにつくと、まずタバコを吸った。
その日はいつまでも吸おうとしない彼に気を遣って、私は言った。
「あぁ……タバコやめたから」
なんで? 反射的にそう言いかけた私は、すんでのところで止めた。
きっと奥さんになる人と、そのお腹の子供のためだった。
「そうなんや。偉いやん」
私は笑って言った。
髪が少し短くなったトモは、顔が締まって見え、随分と大人に見えた。
「この前はいきなり電話してごめんな」
「めっちゃびっくりした。誰かのイタ電か思ったもん」
「…うん。いや、いずれ俺が結婚することお前の耳に入るか思って。ジュンたちから」
「あぁ…」
ジュンは私とトモの共通のバイト仲間で、よく一緒に遊んだ。
私たちが恋人だったことは、もちろん知らなかったけれど、友達付き合いは続いていた。
料理が運ばれてき来て、私は必要以上に喜んで食べた。本当は胸がいっぱいで、味などわからなかった。
胸がいっぱい。
トモを見ると・思うと、いつも感じていたこと。
片思いの頃、
恋人だった頃、
瞬間瞬間に伝えたいことは山ほどあったのに、どれだけ言葉を尽くしても、抱きしめても、伝えきれない思いは行き場をなくして胸をいっぱいにした。
「お前、好きな男できた?」
トモが、遠慮がちに聞いた。
「うーわ。今から幸せなる人に全然聞かれたくないわー。てか普通聞く? そんなん?」
私がふざけて怒ると、
「ごめん」
真面目な顔をしてトモは謝った。
私は、どう続けていいのかわからずに、
「あ、おるおる。好きな人とかめっちゃおる。いっつも三、四人はおるで」
と、軽口を叩いた。
「そうなんや」
彼は小さく笑うと、ふとうつむいた。
一瞬店のBGMがやけに大きく聞こえた。
客足が途絶えたのか、肩の力を抜いたウェイターがコックと談笑していた。
ガラス張りに、店内の照明がいくつも映り、表のビルや街灯の明かりと重なって、宝石を一面散らしたように豪華に見えた。
と。
トモは顔を上げ、持っていたフォークを、チリンと皿の上に置いた。
「……ごめん」
ごめん。
そう動くトモの唇を私は見た。その言葉の真意がわからなかった。
「別れてから、ずっと謝りたかった。俺、お前のことただ傷つけたって。いろんな約束も中途半端にしてもうて……」
「……中途半端? 中途半端に私に約束したん? 適当やったん?」
「違う。それは違う」
「じゃあそれでええやん。私は何も傷ついてなんかないで。その時にほんまに思ってたんやったらそれでええやん」
「うん」
頷きながら、彼がくれたたくさんの喜びや約束を、思った。
私たちが目指したのは、遠く離れれば離れるほどにわかる、二人でしか作れない紋様の、透明な陽が差す砂浜だ。
そこでは綺麗な波がいつも穏やかに寄せて、返す。
誰も邪魔できない、二人きりの砂浜。
「あのな、ひとつ聞いていい?」
私は切り出した。
ずっと。ずっと聞きたかったこと。
「うん」
トモはきょとんとした顔で頷いた。
「私と」
そこまで声に出して、私は息を飲んだ。
涙が一気に溢れそうになったのだ。
止まれ。
ここでこぼれるな。
私はギュッと拳を握り締め、続けた。
「私と……つきあってたこと後悔してない?元男とつきあってたって、後悔してない?」
私たちは別れた。そして、トモは普通の女性と結婚してゆく。
私にとってトモとつきあった四年間は魔法だった。幸せが過ぎる四年間だった。
だからこそ、その魔法が解けたとき、トモが私との四年を、後悔と共に記憶の隅に追いやっているのではないかと思えてならなかった。
彼と別れてから、ずっと私はそれが怖かった。
「なんで? 全然。全然やで。感謝ばっかりやで。会えてよかった。お前に会えてよかった。ホンマに」
トモは、その瞬間だけは外さないよう、私に必要な言葉だけは外さないように、ゆっくりと言ってくれた。
会えてよかった
それは私にとって、未来が呼ぶ声だった。
ずっとその言葉を抱き締めながら生きてゆけば、こんな私でも、いつかまた誰かに必要とされる日がくるのではないか、と。
テーブルを挟んで座る二人の間に、燦々と『何か』が降り注いだ。
綺麗なことばかりではなかった私たちの歴史の裏にも表にも、わけ隔てなくその『何か』は降り注いだ。
「ジュン達は式に出るん?」
私は聞いた。
「え?」
「結婚式」
「……うん、一応そうなってる」
運ばれてきたコーヒーにミルクを入れながら、トモは少し言いにくそうにした。
「私も……出たらあかんかな? もちろん大学時代の友達として、ジュン達と一緒に」
彼の動きが一瞬・止まった。
「え?…でもお前……そんなん嫌やろ…?」
私の心が見えないのか、トモは探るように聞いた。
「ううん。嫌じゃない。むしろきちんと出たい。最後まできちんと」
そうだ。
もう最後だ。
私は最後までトモを見送る。
そして、もうひとつ。自分のために心に決めたことがあった。
「……ホンマに、お前がそう言ってくれるんやったら、嬉しい…。ありがとう…是非きてください」
トモはみるみる目を真っ赤にして、頭を下げた。
二人の間に、ただ優しくし合うだけの熟成された時間がこっくりと流れた。
十八歳の春に出会った二人の、本当の「最後」が近づいていた。
最終話「あの坂道」 へ。
←次の最終話で、2006年から続いた、私の大学・高校・中学の恋のお話は終わりです。トモも・ケイタも・沢村先輩も。それぞれの人を好きだった時には、気付かなかった気持ちを、こうして何年もの時を経て文章にすることが出来て、しかもたくさんの人に読んでもらえたこと。
どの時代の自分も、まったく無駄じゃなかった。そう思えるのは、皆のおかげです。最終話が終われば、本当にすんごいお下劣ブログに戻りまくります。そんな私を見捨てないであんたたちー!!!

