どもー。昨日のブログ読んでくれた人たちは知っての通り、昨日中にUP予定だったのが今になってやっと出来上がった・・・。あぁ寝る時間が無いんだけど。疲れた・・・・
今回は雪美さんという方から頂いたメールを元に書いたフィクション短編です。雪美さんありがとう。
過去の短編はこちら→「頑張れ女の子シリーズ」
「Sweet honey,My honey,My home」
日曜も夜九時を過ぎると、ほとんど車通りのない駅前の信号で。
私は取り残されたようにポツリと一人、やたら長い信号機の赤色を見つめていた。
五月の終わり。漂う初夏の青臭さが風に混ざって私の髪をさらさら梳き、鼻をくすぐっていく。
ようやく青に変わった信号に、ノロノロ足を踏み出した。
この町に来るのは一年と少しぶりだ。友達と落ち合ったのがすぐ近くの駅で、その帰り道になんとなく寄ってみた。というのは建て前で、きっとずっと来たかった。のだと思う。
見上げると夜空の向こうの方に、都心部の街明かりを反射した朱色の雲がゆっくり動いていくのが見えた。
そんな煌びやかな明かりが届かない郊外のこの町で、彼と私は大学時代から社会人二年目の春まで、半同棲生活を送った。
自宅にはほとんど帰らず、彼の住むアパートで過ごした数年間。けれどそれはあっけない幕切れとなった。
去年、ゴールデンウイーク前に彼とケンカをして、アパートを飛び出したのだ。
それから、一度もこの駅に降り立つことはなかった。
久しぶりのような、つい昨日も歩いたような。不思議な感覚にフワフワしていた。
一年以上ぶりに来てはみたものの、やはり彼のアパートへ向かうしかなくて、私はゆっくりゆっくりと足を進めた。
少しだけ。彼の部屋の明かりがついていたら、それを少しだけ見たら帰ろう。
胸はずっと押されるように苦しくて、痛かった。
いや、きっと私がアパートを出て行った時から、彼と会わなくなってから、ずっと胸は痛かったのだ。彼が開けた穴が疼いて疼いて。
何台か並んだ自販機たちの前を過ぎる時。私が近づいてきたのにびっくりしたのか一匹の真っ黒い猫がゴミ箱にぶつかりながらササッと走り逃げ、私と距離を取った。その弾みで、ゴミ箱の上に置かれていたコーヒーの空き缶が派手な音を立て、アスファルトに落ちた。
民家の駐車場に停めてある車の下に隠れ込んで、私をジッと見る黒猫。
彼の猫も最初はこんな風だった。
私と彼の生活は、もう一人、いやもう一匹・彼が実家を出る時に連れてきたタマという猫も一緒だった。タマは黒と白がまだらに混ざった毛色をしていた。
私と彼にヤキモチを妬いて、最後まで仲良くしてはくれなかったけれど。
転がったコーヒーの空き缶が、夜に反発するよう真っ白に放つ自販機の光に晒されていた。
拾い上げ、ゴミ箱に落とし入れると、カンと渇いた音がした。
そう。
あの日。ケンカの発端は缶コーヒーだった。
私はその頃いつもイライラしていた。
入社二年目になっていたけれど、未だ慣れない仕事内容や、社内の微妙な人間関係に起因する様々な問題に疲れていた。
日曜だというのに家に引き籠もって書類に目を通す私に彼が、コンビニに行ってくるけど何かいるものある?と、声をかけた。
けれど私はううん、と生返事だけで、彼の方に目も向けなかった。週明けのプレゼンで頭がいっぱいだったのだ。
彼が出て行きそして帰ってきたのにも気づかないほど私は集中していた。
それからしばらくして一息ついた私は、何か飲もうと台所に立った。すると、燃えるゴミ入れの袋にコーヒーの空き缶が捨ててあった。
「これ、燃えないゴミだって」
「あ、そうか」
「そうかじゃないよ、いつも分別しないじゃん」
私の責めるような口調に彼もかちんと来たのか、
「たまたまだろ?」
歩み寄ってきて、私の手から缶を取り上げ、燃えないゴミ用の袋に投げ入れた。
粗雑なその動作に、
「たまたまじゃないよ!いつもだよ!」
私は大声を出していた。
和室の隅に敷いた座布団の上でスヤスヤ眠っていたタマがいつの間にかパッチリ目を覚まし私たちをジッと見つめている。
何故だろう、本当に些細なことだった。
頭の芯ではどうしてこんなことでと思っていたのに、走り出した感情を止められなくなっていた。
お互い就職してから、ずっと自分ばかりだと思っていた。
自分ばかりが大変な思いをしているのだと。私も働いているのに、と。
自分が料理を作っているのに・自分が洗濯もしているのに・自分がゴミの分別をしているのに。
次々に溢れてくる。
彼は朝弱い私より早く起きて、熱い紅茶をいつも淹れてくれたのに・たまの休日には自転車をギイギイ漕いで色んなところへ連れて行ってくれたのに。
そんな優しいところは全て頭から吹き飛んで、自分が・自分が、と、どんどん固くなっていった。固くなった心は少しのことで亀裂が入ってしまう。
ただ表に出すか出さないかの違いであって、彼にだって色んな思いがあったに違いない。
その時の私はそこまで考えることが出来なかった。
それからしばらく言い争いが続き。
「出て行く!」
と、私は荷物を手早くまとめはじめた。
そんなにひどいケンカは初めてだった。けれど心のどこかで、きっと引き止めてくれるだろうという考えもあった。
彼はツイとそっぽを向いたままで、その背中に怒りが見て取れた。
自分で言い出した以上引っ込みがつかず、荷物を抱え、部屋を飛び出した。
外はすっかり夜の帳が降りていた。向かいの一軒家の塀から成長したツツジの枝がモサーッと道路に張り出していて、無数の真っ白なラッパ形の花を蒸せ返るほどに咲かせていた。
私と彼は毎年春になると時々、ひとつずつその花を勝手に頂戴し、チュウチュウ蜜を吸った。
それのお詫びにと、塀に貼られたポスターの市議会議員に投票したこともあった(ツツジの家はその議員の応援事務所のようだった)。
四月のまだ肌寒い中、そのツツジを見る最後になるかもしれないなどと考える余裕もなく、私はヒールをカツカツ響かせながら駅に向かった。
街灯がいろんな角度から私を照らして、薄い影・濃い影と私を幾人も夜道に浮かび上がらせていた。
アパートを飛び出してから数日間は彼からの連絡が入らないかと、いつも携帯に意識が集中していた。何をしていても誰と話していても私の全神経は携帯に向かった。
けれど、待っても待っても彼からの着信もメールも入らなかった。当然だ。別れると啖呵を切って飛び出してきたのだ。
結局あまりにも待ち続ける自分に恐怖し、携帯番号を変えた。
その次に来たのは、私が携帯を変えたのを知った彼が私の部屋まで訪ねてくるのでは?という願望だ。
結局それにすがる自分すらも虚しくて、引っ越しまでしてしまった。
そんな後味の悪い別れから一年以上が過ぎていた。
人気ない夜道をひたひた歩いていく。途中アスファルトが夏の暑さのせいで、ボコボコ隆起してしまったところがあって、設置された赤い郵便ポストも少し傾いていた。ここを通る度、小首を傾げるようなその様子に吹き出しそうになっていたのを思い出した。立ち止まってポストの赤にそっと触れてみる。夜気にシュンと冷やされはじめたその埃っぽい感触。手には薄く汚れがついた。
押しボタン式の信号を渡ると、川沿いの道に入る。
その途中にあったはずのレンタルビデオ屋が綺麗さっぱりなくなり、月極の駐車場になっていた。流れる川は何も変わらなかったのに、ビデオ屋だけが魔法のように切り取られていた。
学生時代。真夜中何もすることがなくて、二人でよくその店に通った。川沿いを手を繋いで歩く。あまり流れのない川は、岩がゴツゴツしているところだけチョロチョロ水が歌っていた。
川縁にホタルが飛んでいた!と二人で大騒ぎしたことがあった。二人並んで夜にじっと目を凝らし、ホタルを探し続けた。
「あ!」
「いた!あれ?」
ふわふわ飛び回るそれは、街灯の明かりを受けた蛾だった。
蛾を探し続けた私たちはそれがおかしくていつまでも笑い続けた。
思い出なんて毒にも薬にもならない。楽しい思い出だって辛い思い出だって、永遠にその中で生きることはできないのだから。ものすごい速さでいつも通り過ぎるだけだ。
それでも。この町には思い出が多すぎる。
川沿いを五分ほど歩き、小道を右に入ると、止まれと大きな標語が道路に書かれている。その先に彼の住むアパートがあるのだけれど、これ以上は行くな、止まれと言われているようで戸惑った。
足を進めるごとに、自分の息遣いと体の動きが合わなくなってくる。体がバラバラになっていく。統制が利かない。
しんと静まり返った住宅街の中、ひときわ古い二階建ての木造アパートが夜に浮かび上がってきた。
そう。
ネコと暮らせて家賃も安いといえばこのくらいの部屋しかなかったと、最初私を部屋に呼んだ時、申し訳なさそうに彼は言った。
けれど私はすぐにこの部屋が気に入った。
一階の一番左端、彼の部屋には明かりがついていた。
鼓動が早く早くなっていく。
ストーカーチックだなと自分でも思いながら、窓に映るスーツの影を懐かしく思った。
クローゼットなどという気の利いたものが無いので、カーテンレールにスーツを掛けるのだ。あまりにたくさん服を掛けすぎると、レールがグニッとしなった。
もしも。あんな形で出て行っていなければ。私が素直に謝っていれば。こんな風に夜に紛れて部屋の明かりを見つめることもなかった。
勝手に飛び出し、携帯を解約し、引越し。自分から完全に連絡を絶ったのは私なのだ。
向かいの一軒家に視線をやると、件の市議会議員ポスターの横、ツツジの花はとうに散って青々と小さな葉が茂っていた。
ふー
小さな溜め息ひとつ、立ち去ろうとした私の目の前で、彼の部屋のドアがいきなり大きく開いた。出てきたのは、寝起きなのか髪はボサボサでジャージにサンダル履きの彼だった。
二人とも息を呑み、一瞬動きがピタリ止まった。
「びっくりした……」
最初に口を開いたのは彼だった。
タバコの匂いが彼と彼の部屋から漂ってくる。
「えっと……忘れ物……とかあったかなって」
「今頃?」
「っていうのは嘘だけど……近くまでたまたま来たから」
言いながら視線を逸らすと、市指定の半透明ゴミ袋を彼が提げていることに気がついた。月曜日の朝は燃えないゴミの日だった。
袋の中には缶やペットボトルが入っていて。
「きちんと分別してるんだ」
思わず口にした。
「誰かがやってくれるわけじゃないし」
「……そっか」
「携帯変えたんだな」
「うん」
「引越しもしたんだ」
「うん」
「久しぶり」
「うん」
「……ごめん」
「……ううん」
ホントはごめんねを先に言うのは私だ。別れてからあなたの優しさばかりが浮かんできたよって。何にもわかってなくて、ワガママでごめんねって後悔ばかりだったよって。
取り戻せないものはきっとある。
それでも、離れていた一年間、ずっと思っていたことは「彼に会いたい」だった。
「私が……悪かったから…ごめん」
その時、開け放されたドアの向こう、玄関で見覚えのある影が動いた。
「あ、タマ」
何事かと玄関先に顔を覗かせたタマは、こちらを見るなりトトッと表に飛び出し駆け寄ってきた。
「ナー」
と、私の足に体を擦り付けて甘える。
「私のこと覚えてる……」
つぶやくと、タマはふいと見上げ、もう一度「ナー」と鳴いた。
「そりゃあ覚えてるって……何年も一緒にいたのに」
彼が言う。
ずっと仲の悪かった私に、タマが甘えてくるのははじめてだった。
「とりあえず、入れよ。汚いけど」
タマを撫でる私に、彼が照れくさそうに続けた。
一年前、私の心に開いた、彼という穴は、彼でしか埋めることができなかった。
それは離れてしまった友達や、死んだおじいちゃん・おばあちゃん、飼っていた犬、皆が開けていく穴と同じものだけれど、良かった。彼が開けた穴がまた彼で埋まった。本当に良かった。
二人で子供のように吸ったツツジの蜜の甘さを忘れない。これから。
私たちの間をすり抜け、玄関のドアをスルリとくぐったタマが、私を振り向いて「ナー」と鳴く。
「おかえり」
と、呼ばれている気がして、全身をジンと何か、温かい何かが駆け巡って。
数秒間うつむいたまま、私は動けなかった。