このお話は今年の1月に書籍化した「私が夢見た『優』」。私の大学時代の実話です。
出版に際し、大人の事情によってブログ上から姿を消していたのですが、再UPできることになったので、読めていなかった読者用にもう一度順次公開していきます。
発売中の書籍は、このブログバージョンにいろんなエピソードが追加された完全版になっています。
あくまでもおまけ更新ですので、既に読んだ方はスルーしてください。
目次はこちら
私が夢見た「優」
第七話「壊れる。」 (第六話はこちら )
玄関のドアを閉めると、私はまっすぐにバスルームへ向かった。
家族も寝静まった真夜中、バカ丁寧に浴槽を流して、少し熱めの湯を張った。
全開にした窓からは、雨のすえた匂いが混ざった肌寒い空気が忍び込んでくる。
浴槽にゆっくり身体を沈めると、骨までブルブルしびれてしまいそうな温かさがじゅうっと沁みてくる。
「俺のこと好きやったら友達やめる。気持ちに答えられへんから。俺は女が好きやから」
トモが言ったことを何度も心で繰り返し、頭に叩き込んだ。
ずっと。ずっと怖れていたことが現実になってしまった。
それでも。
トモの本心を言葉で聞いたことは確かに悲しかったけれど、決して報われることのない思いを抱えながら彼のそばにいることも、また悲しいことだった。
これでよかったんだ。きっと。
自分にそう言い聞かせ、ついさっきまで彼と一緒に濡れていた霧雨の気配を、窓を通し感じていた。
白熱灯の卵色の明かりが反射する湯には、私の裸の身体が透けて見える。
バシャバシャ
手で湯をかき混ぜると、グニャグニャゆがんで、男の身体か女の身体かわからなくなった。
そして、私はトモと距離を置くようになった。
トモが私の気持ちに勘づいた以上、それまでと同じように遊んでも、彼は私に反射的な嫌悪感と罪悪感を抑えられないだろう。
私も敏感にそれを感じとって、お互いどんどんぎくしゃくしていくだけだ。
二人の関係はもう袋小路。
それなら、私が決断するべきなのだ、と。
私からトモに連絡することはなくなり、バイトもわざとシフトをずらしたので顔を合わせることもなかった。
最初の内は、
「どうしたん?」
「体調悪いんか?」
などと頻繁に連絡をしてきた彼だったけれど、
「最近バタバタしてて……」
のらりくらりかわす私に、なんらかの意図を感じ取ったのか、何も言ってこなくなった。
桜はあっという間に散り、春はどんどん濃さを増していく。
去年の春は。
ミルクホワイトに霞がかった春空を見上げ、私はよく考えた。
去年の春は、まだトモのことを好きでもなくて、ただのバイト仲間で。
それから皆で遊ぶようになって、二人でも遊ぶようになった。
その一年後。会わなくなった。
どれだけ春が色鮮やかに生命を萌え立たせても、まったく自分に入って来なかった。温度が入って来ない。
何も私の中にとどまらなかった。すべての物事は虚しく通過していくだけで。
立ち枯れる。
トモと会わなくなった私は、緑や空気が放つ・春に弾けるような瑞々しさとは逆に、どんどん自分が立ち枯れてゆく気がした。
いくら頭では「しかたない」と自分をなだめても、私の中の好きという感情は、じっと熱を孕んだままだった。
そんな状態がふた月近く続いた。
私はその日をはっきりと覚えている。五月三十一日だった。
「今日お前、暇?」
久しぶりにトモが電話をかけてきたのだ。
「うーん、今日はいろいろ用事あるわ」
「ちょっとでええから時間作ってくれへんか?」
彼にしては珍しくやけに食い下がった。
ホンマに帰り何時になるかわからんから、と断ろうとすると、
「何時でもええから。いつもの所で待ってる」
トモはそれだけ告げ、半ば強引に電話を切った。
「…?」
一方的な内容に、トモに何かあったんだろうか、と少し心配になった。
その夜。日付も変わろうとする頃。トモはイチョウ坂道に車を停めてじっと待っていた。
いつもの坂道。アスファルトもイチョウもすべて月明かりに透けるような青だった。
ぽつりと灯る街灯の下、ぼんやり浮かびあがる運転席のトモの様子はやはりおかしかった。
「遅くなってごめん」
私は、なんとなく気後れしながら助手席に乗り込んだ。
「いや、俺が無理言うたから」
かたい声音でトモが言う。
車内のいつもと違う空気に妙な居心地の悪さを感じながら、
「どした?」
おそるおそる聞いてみた。
「うん…」
タバコに火をつけながら神妙な顔で頷くトモ。
けれど、言葉は続かない。
私はそれ以上詮索するのをためらって、ただ流れるFMを聴いていた。
カーステレオの液晶で踊る光の帯が、暗闇に綺麗に映えた。
「ひさしぶりやな」
少しの沈黙の後。細く笑って、トモが言った。
「……そやな。でもひさしぶり言うても二カ月くらいやん」
本当は。
本当はもっともっと長く感じた。
毎日がただ砂時計を眺め続けるようにジリジリと過ぎた。
やり過ごしていた。
会いたかった。
いつも私の中の抑えきれない思いは声をあげて泣いていた。
会いたい
会いたい
海鳴りのようにいつも胸で渦巻く思いに、耳を傾けてしまわないようかたく張り詰めていた。
しばらくぶりに乗るトモの車。
タバコの匂いと、嗅ぎ慣れたかすかな芳香剤の香りが、私をまた恋の彼方へ連れ去ってしまう。簡単に。
「花粉、もう大丈夫になったんやな」
いきなり話題を変えた私の言葉に、彼は一瞬きょとんとして。
「あーメガネか。うん、コンタクトつけれるようになったわ」
と、返した。
そんな、うわつらを撫でるような会話も長くは続かず、私たちはまた黙り込んだ。
FMのDJの陽気な声だけが、場違いに響く。
ニ分?三分?もっと長く感じた沈黙のあと。
「俺な……」
トモは、ハンドルに寄りかかりながら、ゆっくりと話しはじめた。
第八話「五月三十一日・六月一日」 へ続く

